四半世紀前の一大学自治寮の姿を知って頂くための蒼玄寮悠元寮ナビゲーション、第2回目は寮自治編です。筆者が在寮していた90年代前半の様子です。

寮自治の体制

蒼玄寮(男子寮)、悠元寮(女子寮)は、学生自身がその運営を行う自治寮でした。その体制は三権分立に習ったものでした。

寮の行政部である委員会には、蒼玄寮、悠元寮それぞれの委員会と、両寮の問題を扱う学寮運営委員会の3つがありました。それぞれに十数人の委員が選任され、活動していました。

寮の立法部である決議機関としては、両寮の寮生大会と、両寮共通の問題を決める代議員大会がありました。前者は寮生全員が議決権を有する直接民主制、後者は一部屋一人の代表が議決権を有する代議員制でした。

寮の司法部としては、両寮に監査委員会がありました。良からぬ寮生に罰則を勧告できる強い権限を持っていたはずですが、そのような事例はほぼなく、先の各委員会の活動と大会の運営および選挙が正しく行われているか、その監査が主なお仕事でした。

各委員会の任期は半年で、期のはじめに選挙を行い選任、期の終わりに寮生大会や代議員大会にて総括を行っていました。(総括といっても暴力ではないですよ)

このような体制は、憲法に当たる「規約」に明記されていました。

DSC_0378さよなら蒼玄寮悠元寮」、蒼玄ロビー、風呂、食堂より、蒼玄寮風呂入口左側に選挙結果の公示が見えています。

南一ブロック

緑の旗1988年5月30日号

緑の旗1988年5月30日号より、南一ブロック

蒼玄寮委員会の委員は、期の始まりに引っ越して、全員が南棟一階に住んでいました。

それぞれの役が不在でも分担ができ、来客があっても寮の代表として誰かしらがすぐ対応できるように、とのためでしょう。

ですので、南一ブロックは任期の半年ごとに引っ越しが必須です。

悠元寮委員会にはそのような制度はありませんでした。

寮が扱う問題

このような体制で寮が取り組むのは、寮生の生活に関する問題です。

優先順位をつけて壊れたところを直したり、設備を導入したり。それらの経費を、寮生だけでなくなるべく大学も負担するよう交渉したり…。

もちろんそのために予算・決算も必要です。

その中でも中心は、寮食堂の運営でした。食堂の職員さんが去られると大学は補充しないといってきたり、それでも食堂を維持するためにパートさんを雇用したり、物価の上昇に合わせて食券の値上げを検討したり…。

 

寮史総合年表から、寮自治に関係しそうな事柄を抜き出してみます。

用語を補足しておきますと、定削:定員削減、炊フ:食堂の職員さんやパートさん(炊夫、炊婦のポリティカル・コレクトネス的表現)。

  • 1972年度:電子レンジが導入される
  • 1974年度:風呂日数の制限が始まる
  • 1975年度:食器を持ち帰らないで!
  • 1978年度:炊フの石塚さん定年退職
  • 1979年度:80年2月 炊フの山田さん死去
  • 1981年度:蒼玄寮に洗濯機大増設
  • 1982年度:夏 炊フ定削反対署名運動が盛り上がる
  • 1983年度:寮食の予約制開始/84年3月 炊フの秦さん定年退職
  • 1984年度:炊フの長沼さん、田中Sさんが食堂を去る
  • 1985年度:芳賀さん、高橋さんが寮を去る/寮内に猫が大増殖(うんこたれ入寮)
  • 1986年度:水道料小口化問題
  • 1987年度:アスベスト問題勃発
  • 1989年度:出食数の減少が目立ち始める
  • 1990年度:アスベスト除去工事/職員さんたちとお茶会
  • 1991年度:土曜日の出食がなくなる/佐藤さんを送る会
  • 1992年度:寮食堂職員不足問題勃発
  • 1993年度:このころ寮にあった当番/トイレの茶色い雨事件
  • 1994年度:各部屋の増アンペア実現
  • 1995年度:96年3月 事務室の浅野さんが退職
  • 1996年度:O-157騒動で食堂もてんやわんや
  • 1998年度:悠元寮が全寮連を脱退
  • 1999年度:各部屋に黒電話設置/蒼玄寮も全寮連を脱退
  • 2000年度:寮内某重大事件勃発

委員会は職員さんとも密に連携が必要でしたから、職員さんの退職も挙げています。

 

そうそう、寮内に犬も猫もたくさんいました。補食室では生ゴミにありつけましたし、特に子猫は可愛いので餌を上げる人もいました。衛生面に難があるので、寮自治の問題に挙げられていました。

犬は1992年頃の蒼玄寮委員会ががんばって捕まえ、保健所に引き渡したと記憶しています。

 

文集「ごちそうさまでした」の寄稿にも寮自治に関していくらかが記されています。

石綿撤去工事

私が在寮していた期間で最も大きな問題が石綿問題でした。寮史では「アスベスト問題/撤去工事」と書かれている項目です。

石綿とは、文字どおり鉱物が繊維状になったものです。

ひと昔の小学生は理科の実験で、アルコールランプの上に「石綿付き金網」(或は「アスベスト付き金網」)を置き、その上でフラスコやビーカーを熱していました。理科のテストでも出題されました。

それほどおなじみであった石綿は、その耐久性耐火性などから防音材断熱材として、壁内や天井の建材として使われていました。

しかし80年代になるとその危険性がマスメディアに取り上げられるようになりました。(Wikipediaを見るとそれ以前から危険性がわかっていたようなのですが。)

石綿の細かい繊維を吸っていると、肺がんや中皮腫という肺の腫瘍になる危険がある、というのです。しかし当時のテレビは、レポーターを建物の石綿撤去の現場に突入させ、「喉が痛いです!」なんてレポートをさせていました。今考えるとひどいものです。

そのような時代にある寮生が気づきました。天井に吹き付けられているのは石綿ではないか、と。

私が入寮する前、1987年のことです。詳しい経緯はわかりませんが、石綿と確認され、学寮運営委員会を中心に、その撤去工事について大学との交渉がなされました。

大学の主張は、一回全寮生が退寮し、工事終了後に再び入寮生を募る、というものでした。

しかし寮生側は、それでは寮の伝統が失われる、蒼玄寮の入寮制限を行って人数を減らし、一棟づつ(寮生は棟を引越しながら)工事を行うべし、という主張をしました。

その「伝統」には、寮自治も含まれることは言うまでもありません。

その時は大学との合意に至らず、学寮は自身の判断で入寮制限を始めました。私が入寮したのが、その入寮制限の一年目です。

 

石綿は天井に「吹き付けられていた」だけですので、2段ベッドの上で寝起きしていると頭を擦り、白くなります。ボードゲームをしていると、その上に石綿がポタリと落ちてきます。天井にボールを投げつけた跡がある部屋もありましたし、天井を掃除機で吸っていた、という先輩もいました。

そして各棟の4階の天井には、なぜか石綿はありませんでした。謎。

 

その後寮生案で大学と合意し、1990年に石綿の撤去工事が始まりました。

順番は忘れましたが、悠元寮、南棟、北棟東、北棟西を順繰りに空っぽにし、工事が進みました。(他の棟への引っ越し中も、もと居たブロックの関係が維持されていたことは特筆すべきかと思います。)

 

悠元寮生 が南棟に住んだときには、蒼玄寮の風呂を利用したことは前回書いた通りです。

蒼玄寮風呂の脱衣所の前は小さい吹き抜けになっていたのですが、このときは屋上から覗けないように、脱衣所のサッシに模造紙が貼られました。

するととある先輩が当時の一年生数人に命じ、その模造紙にち〇拓を押させました。これも一つの歴史ですので記しておきます。

DSC_0387さよなら蒼玄寮悠元寮」、蒼玄ロビー、風呂、食堂より、蒼玄寮風呂、脱衣所の前の吹き抜けです。

 

寮史総合年表1987年度に、石綿撤去工事時に南棟に住んだ悠元寮生の感想がありますのでこちらもご覧ください。(前回書きましたが、コタツだけの理由では…)

3311002343卒寮ビデオ」の1991より、これは蒼玄寮ロビーでの記念写真ですが、背後の壁は本来はなかった壁です。石綿撤去工事において、南棟とロビーを区切るために作られました。悠元寮生の仮住まいの南棟に忍び込めないようにするため…。

委員会室

南棟一階には、委員会室1と委員会室2がありました。悠元寮一階にも委員会室がありました。

委員会室1は学寮運営委員会が、委員会室2は蒼玄寮委員会が利用しており、それぞれの会議が開かれるほかは、委員会の歴史的な資料が積み重ねられていました。

委員会室2には、青焼きの複写機、印刷のための輪転機があり、委員会の他、各種実行委員会も利用していました。コピー機などは当時寮にありませんでしたから。

青焼き機を使うと、薄い紙に鉛筆等で書いた書面が感光紙に青く複写されます。ぴんとこない方でも、もしかしたら博物館・資料館等の技術系展示で青い設計図を見たことがあるかもしれません。

また輪転機は、機械式で激しく回りながら印刷します。そのような機構のため、よく壊れました。どこからかいらなくなったものを貰ってきたり、壊れそうなので調達費を寮の予算から積み立てたりしていました。寮の輪転機が壊れたときなどは、大学自治会の「中央執行委員会」(中執)の部屋の輪転機を借りて印刷をした記憶があります。

ちなみに印刷する紙は「わら半紙」(漂白されていないわらの色の紙)です。この輪転機で印刷された、大会の議案書、委員会の新聞、誰がどの部屋に住んでいるかを書いた部屋割り表などが、各部屋に配布されました。

DSC_0500さよなら蒼玄寮悠元寮」、南棟より、2010年の委員会室2です。右の壁には棚があり、歴史的な資料が未整理のまま山積みにされていました。中央には木製の大きな机が。

一応補足をしますと、私の居た時代の学生寮には政治的な雰囲気はありませんでした。もちろん個人では政治色のある団体に加入していた人はいましたが。

寮自治は、現実の暮らしを維持・改善するための純粋なものでした。

全寮連

全寮連(全日本学生寮自治会連合)は文字通り自治寮の委員会の集まりです。年に1回か2回、2,3日間の集まりを開いていました。

その集まりでは以下のようなことが行われていました。

まずは寮自治に関するテーマで何組かの分科会に別れてのディスカッション。「経験交流」というものです。

夜は飲み会です。各寮の自慢話とコンパ芸が繰り広げられました。私自身数回集まりに参加しましたが、これが目当てでした。交通費・参加費は寮持ちでしたし。

そして大会では何かしらの決議を行っていました。内容は全く覚えていませんが「○○をアピールしていきましょう」的なものだったかも。

私の参加した当時の全寮連大会は、全国各地の寮から数名づつ、大学の階段教室が埋まるくらい集まっていました。しかしその後加盟寮も減り、2006年に解散したようです。

 

全寮連は民青系といわれています。

とはいえ集まる寮自治会のすべてがその色だったわけではありません。我々含め。

その中執(中央執行委員会)については、私は実態を知りません。1990年初頭まではその色が強かったとしても、中頃に近づくあたりでもうそんなことを言っていられないほど人手不足だったのではないでしょうか?

中執になるとどんなお仕事があるのかはわかりませんが、たいてい東大駒場寮に住み込みになりました。任期期間中は休学です。(すべての中執の人がそうというわけでもなかったかも。)

 

また全寮連は、緑の旗という機関紙を出版していました。一部300円でした。新聞のような体裁のものです。

蒼玄寮悠元寮の記事としては、事務室の職員である浅野さんの記事、蒼玄寮委員会の集合写真などが掲載されました。(私の入寮前ですが。)

「緑の旗」1977年1月30日号より同窓会サイト発足記念式典」、蒼玄寮悠元寮グラフティより、1977年掲載の悠元寮の記事です。

委員会としてはこれを購読していましたが、普通の寮生で購読している人は多くはありませんでした。

委員会室2には緑の旗の縮刷版もありました。2010年に寮がなくなるまでそれはあり、何冊かは同窓会にサルベージされました。

福利厚生施設としての学寮

前回、当時の学生寮と学生宿舎の家賃を比較し「自治寮と大学管理寮との違い」と書きました。その違いとは、寮を「福利厚生施設」と捉えているかどうかです。

自治寮では、学寮を「経済的に困難があり、かつ自宅からの通学も不可能/困難な学生にも進学を可能にする機会均等のための福利厚生施設」と捉えています。寮生の負担を少なくするため、大学と運営費の分担を交渉します。寮生がその運営を話し合う時間もかなりかけます。

大学管理寮では、「寮を福利厚生施設とは考えていない」とまでいうと反論がありそうですが、その運営は合理的、或いはドライです。

大学管理寮における、入居者の水光熱費消費量分負担は合理的です。しかしそれすら包括払いにして寮生の負担を減らそう、というのが自治寮です。

とは云え、私は経済面から自治寮のほうがよい、と断言するつもりはありません。共同生活、お互いの干渉、話し合いの時間などが苦手な人が多いのであれば、個室の大学管理寮のほうがよいのでしょう。(個室の自治寮というものもあったかもしれません。)

とにかく自治寮の寮生が、大学管理寮の寮生や普通の学生と少しだけ変わっている点は、次回以降書くことになります。

おわりに

以上、狭義の寮自治についてでした。

問題も多岐に渡りましたし、各委員会のお仕事も多岐に渡りました。全ては書けません。(思い出せません。)

次回は娯楽の面を書きたいと思います。これも広義には寮自治の一環です。