世相・事件・流行歌

東北上越新幹線開通!

 6月23日早朝、一番列車が、盛岡だか新潟だか、そっちのほうに向かって出発。ただし、開通といっても、大宮駅を始発&終点とする暫定開業だった。しかし寮生にとっては、身近な大宮駅が新幹線の始発&終点としてクローズアップされることは、誇り以外の何ものでもなかった。「ずっとこのままで、上野にまで通さなくていいんじゃないの」という身勝手な意見もちらほら(当時は、東京駅にまでつながるとは誰も想像すらしていなかった)。開業の前日は、たまたま寮の行事が行なわれており(スコーピオ?)、徹夜で飲んでいた一部の寮生が、朝早くの一番列車を見るためにバイクに分乗して大宮駅に駆けつけた。
 それはそうと、新幹線が開通する少し前まで(開通後もしばらくは)、大宮駅の西口は、終戦直後から残っているかのような建物が並ぶ雑然とした場所だった。それが、あれよあれよという間に更地になり、あれよあれよという間に駅ビルやソニックシティが建ち並んだ。開業を2ヵ月後に控えた4月のある日、寮内で、駅ビルに入る飲食店の厨房設備を夜中に運び込むという肉体労働バイトの募集があった。その割のよさに引かれて、10人ほどの蒼玄寮生が名乗りをあげ、言われた時間に玄関前で待機。するとそこに一台の幌付きトラックが登場。寮生たちは、荷台に詰め込まれ、膝を抱えて体育座りをしたまま大宮駅まで揺られていった。そのお尻の痛さを通じて、現場につく前に「ああ、お金を稼ぐって、たいへんだな」と、十分に痛感させられたという。

夏 炊フ定削反対署名運動が盛り上がる

 寮の中で「炊フ定員削減問題」が切実に語られるようになったのは、1981年の夏ごろから。それまでにも、退職や死亡で人数が減った分の補充はなく、朝食のご飯をパンにするなどしてきた。ここにきて、83年3月でさらにひとり退職しても、学校側は人員の補充をするつもりがないことがハッキリして、寮生たちは危機感を抱いた。
 81年から始まった署名活動が、寮生全体を巻き込んで大きな動きになったのは82年の夏。手分けしてクラスメイトから集めたり、学内をデモ行進したりした。「すべての寮生が心をひとつにして」というと言い過ぎだが、すでに学生がおとなしくなっていた時代背景の中で、
「今考えると、不思議な感じがする」「あれは、妙に燃えたなあ」「削減には反対だったけど、デモはちょっと……という感じでした」(アンケートより。以下同)といった一種独特の出来事だったと言えるだろう。集まった署名数は、3500とも6000とも言われる。
「その数字は学寮協議会(大学評議会の下部機関)を動かす力となりました。数字に自信をつけて、会議室に学生部長を数時間ほど缶詰にしたことがあります。『懇談ではなく交渉だ。協議会の正式メンバーに寮生を加えよ』と詰め寄ったのです」
「数十人の寮生で取り囲んでシュプレヒコールをあげたり、とにかくすごかった。今となると、若気の至りだったとたいへん申し訳なく思っています」
 ともかく、そんな熱意が伝わって、とりあえずは3食体制が続けられることになる。「でも、あれから毎年のように、炊フさんが定年で減っていって、結局は昼と夜だけになり、勝ったのか負けたのかわからないホロ苦さもあじわいました。あれから21年、考えてみれば、よく長続きしたなあと思います」
 今回、寮食堂がなくなってしまうことに対して、寮生のあいだに、とくに具体的な反対の動きはなかったという。もちろんそれは、嘆くことでも責めることでもない。署名を集めた記憶を持つ当時の寮生は、そういう盛り上がりを経験できたことや、そういう思い出まで残させてくれた寮食堂に、さらに感謝すればいいだけである。たぶんね。

春 悠元寮で●●●●開始

この時期、詳しいことを載せて、もし何してアレすると何なので、掲載を自粛します。時期が過ぎたら復活させます。

新幹線開通を祝す雄叫びが響きわたる

6月23日の東北・上越新幹線開通。
東北地方や上越地方出身の寮生にとって、故郷が近くなる喜びは筆舌に尽くしがたかった。
前夜は、開通を喜ぶ寮生が新幹線並みの勢いで酔っ払う姿が、寮のあちこちで見受けられたという。そのときの様子と、開通の感動について、寮生のひとり(岩手県出身、81年入寮)は、こう書き記している。

『東北新幹線、バンザイ!』

私が2年生の6月23日が、たしか東北新幹線開通の日だったと思う。
私はそれまで特急「はつかり」に6時間ほどゆられて、大宮と故郷・盛岡を行き来していた。それが半分に縮まるのだから、嬉しくってしょうがなかった。
東北新幹線開通の前夜、隣の319で1年後輩のK君(山形は米沢出身)と、ひそかに祝杯を挙げていた。嬉しさのあまり「屋上へ行って叫びましょう!」ということになり、二人でいそいそと北棟の屋上へ……。

我々も、故・鈴木修二さんの後輩のはしくれである。
当時は何かあるとベランダや屋上から、よく雄たけびを発したものだ。
余談になってしまうが、何もなくともよくベランダから叫んだ。2・3年のころは、夜、北棟のどこかで飲んでいるとなんとなく叫びたくなり、衛藤さんの放送の真似をして、
「食堂より、お知らせします・・・
 寮食が、あと、じゅう、ごしょく(15食)残っています・・・
 食べたい人は、食券を持って、食べに、(間)来てください・・・
 ・・・メニューは、○○○の塩焼きです・・・」
などと、夜の中庭に向かって吠えていたものだ。
さて屋上に立った私たちは、応援団幹部の経験もないくせに、両手を後ろに組み、脚を肩幅に開いて背筋を伸ばし、夜の中庭の中空を見つめる。
「明日ッ、6月23日はッ、東北新幹線開通の日でありますッ!」
「フレ-、フレー、やッまッびッこッ!」
「フレッ、フレッ、ヤマビコ、フレッ、フレッ、ヤマビコォォォ・・・」
「ファイトー、ファイトー、あッおッばッ、ソレッ!」
「ファイト、ファイト、アオバッ、ファイト、ファイトアオバァァァ・・・」
2人でリズムよく、気持ちよく叫ぶ。すると階下から、「パチパチパチパチ…」と、複数の拍手が聴こえてくるではないか!
「おぉ、ボクたちのエールが温かく受け入れられている! きっと、東北方面出身の方々に違いない!」
嬉しい反応に、私達もいっそう嬉しくなった。
「それではひきつづきまして……」と第2ラウンドの開始を匂わせると、階下から間髪を入れず「うるせぇ~!」と野太い声。
「失礼しましたッ」と一言叫び、私達はあっけなく退却したのだった。

そのころ420あたりでは、F君たちが先輩たちと飲んでおり、明日の東北新幹線開通に向け、何やら秘策を練っていたようだ。
翌日、大宮駅のホームで行われた新幹線開通式のテープカットに、426の1年生だったY君が突如闖入、テープの端っこをカットするという快挙を成し遂げたらしい。お見事!
……こちらの話の詳細は、B君かF君が詳しく知っているはずなので、おまかせしよう。

悠元寮生入浴シーンのぞき事件

悠元寮のボイラーが故障し、蒼玄寮のお風呂を使用。実はこの時、食堂の屋上から脱衣所をビデオで撮影し、それがバレて極秘裏に退寮処分になった人がいるとか。