1978年度の新歓パンフ(78年度新歓実行委員会)より、両寮の「学寮の沿革」を文字に起こして転載します。また同パンフより、「全寮連の紹介」も合わせて転載します。

ひらがなの部分は原文ママとしました。原文にて「斗」の字はすべて「闘」に変換しました。句読点や中点は一部推測しています。また全寮連規約の「第」は、原文では略字となっています。

補注

このパンフは手持ちの資料の中で最も古く、以降の資料よりも学寮の沿革を正確に反映しているものと思われますが、他の資料との比較して疑問が生じた部分、文意が取れない部分がありました。予め補足しておきます。

学寮の沿革〔蒼玄寮〕

第一段落に「(1949年発足当時は)食事も一食か二食(この伝統はいまだに蒼玄寮で守られていますが)の者が多く」とあります。このカッコ内に関してですが、総合年表の1979年度に「10月 朝食がパンと牛乳に」とありますので、当時はまだ朝の寮食があったはずです。三食とも寮食を食べる人が少なかったのでしょうか?

第二段階には「(1949年に)それが学生の強い要望により、埼玉大学学寮となり」とあります。1949年の4月に浦和高校の北寮が空けられ、そのうち2棟が学生寮に充てられることが決まっています。授業開始が7月(実質9月)とのことですから、入学予定の新制大学一年生が要求して実現したと考えることは難しいです。

学寮の沿革〔悠元寮〕

第一段落に「埼玉図書館」とありますが、これは埼玉会館の北側にあり、2015年に閉館となった埼玉県立浦和図書館のことです。

また「(1949年発足)当時の悠元寮は昭和47年に現在の場所に移るまで約10年間使用されたわけですが」とあります。これは「当時の悠元寮は昭和33年に前悠元寮の場所に移るまで約10年間使用されたわけですが」の間違いであると思われます。


学寮の沿革〔蒼玄寮〕

蒼玄寮は昭和24年に発足しました。当時は敗戦後まもなくで物資が不足し、米兵や一部金持ちが涼しい顔で過ごしているなかで、学生は殆ど貧乏に耐えながら勉強してきました。このような中にあって寮がなくては、勉強は勿論、食べるのも満足に食べられない者が多く、寮をつくれという学生の要求が大きな運動として発展し、半自炊のような形で寮がつくられました。したがって当時の寮生は本など殆ど持っていなく、食事も一食か二食(この伝統はいまだに蒼玄寮で守られていますが)の者が多く、着るものもなく、洗濯するときには裸でするような状況でした。

戦前、大宮造兵廠の宿舎が浦和市(現在の北浦和駅前)に建てられましたが敗戦とともに占領軍に接収され、そして移転して空になったのです。それが学生の強い要望により、埼玉大学学寮となり、ここに蒼玄寮が発足したのです。当時は一棟から六棟まであり、一~四棟下には教室があり、五、六棟には、県地方世訪部や消防学校、盲唖学校があり、はなはだ多彩でした。

しかし、この寮も、保健所消防署から危険建設物に指定される程オンボロで生命の危険さえある状況でした。

こうしたなかで新寮を要求する運動が起こり、その後政府文部省の様々な攻撃と闘い、「新寮要求が切実になった時、学校に訴えたが全然聞いてもらえず、涙を流したこともあった。これからどうしようかと考え闘ってきた」(70年1月30日、新寮入寮決定の寮生大会での四年生の発言から)苦しい闘いの中で、全寮的全学的な闘いへと発展させ、70年2月には一度決定された反動的な学寮規定の実質的白紙撤回をかちとり、同年入寮して、十数年にわたった新寮闘争に勝利してきたのです。そして現在の鉄筋四階建ての寮となったわけです。

また蒼玄寮は全寮連と共に発展してきました。十数年間の新寮闘争は全寮連の方針に学び闘って、施設設備闘争、負担区分闘争、自治権拡大闘争の前進とともに全国で最高水準の案を作り上げてきたのです。ところが、学内の反動と共にこの数年の先輩の絶えまざる努力のなかで勝ちとってきた貴重な成果、既得権を奪い、寮生活を破壊しようとする学内一部反動層の策動が強まっています。73年3月の確約破棄の黒電話交換廃止一方的強行、74年3月の石油危機を利用した、フロ日数制限固定化等が強行されました。

私たちは先輩の築き上げてきた寮を破壊する策動を決して許すことなく、更なる発展を勝ちとっていかねばなりません!

学寮の沿革〔悠元寮〕

大正末年、埼玉図書館の裏にあった女子師範の寮が現在の付属中のわきに移動しました。しかし新築といっても古材をそのまま用いて作られたのであまり立派なものではありませんでした。その後、約20年間女子師範の寮として使用され、敗戦をむかえた昭和24年に新制大学が発足すると同時に埼玉大学の女子寮になりました。そして初代学長、新関良三先生がゲーテの「ファウスト」の中の言葉を引用して”悠元寮”と命名し、ここに悠元寮が発足したのです。当時の悠元寮は昭和47年に現在の場所に移るまで約10年間使用されたわけですが、まさに「荒れ放題」となっていたようです。埼玉図書館裏から移転して以来30年も経過し、しかも建てられた当時からオンボロ寮だったのだから当然と言えます。

それに戦後の混乱の中で寮は、完全に見捨てられており、修理改善はほとんど行われなかったものですから、そのひどさは想像以上のものだった様です。当時の寮誌”リベルテ”には次の様に書いてあります。

「風吹けば、風に泣き、雨降れば… まさに悠元寮はそのような状況である。雨が降れば、バケツ タライを用意しなければならない。風が吹けば窓に支えをしなければならない。それよりも建物を支えている柱がくさっている」台風がきた時は避難命令が出て、安全な所へ全員が逃げ込むような状況でした。

このような状況のもとで、先輩たちは自らの生活と権利を守る道に立ちあがりました。「寮改善促進委員会」が結成され(昭和30年頃)折から反動的文教政策強化がされる中で、粘り強い闘争が展開されました。学校当局との交渉、文部省への陳述活動を重ねたり寮の状況をスライドにするなど創意ある活動も取りくまれ、文字通りありとあらゆる努力を重ねた結果昭和32年に予算の内示がありました。その後すぐに敷地設定闘争設計闘争にとりくみました。とりわけ設計闘争は果敢にとりくまれ施設課のだした青写真に絶対反対の方針を出し、「自分たちの寮は自分たちの手で」という合言葉のもとに闘争を進め遂に寮生の案を認めさせました。従って前悠元寮は完全に悠元寮生の手で設計をみとめさせました。こうしてようやく昭和33年5月初旬、永年悠元寮生の夢見ていた新寮が完成されました。

たくましい蒼玄寮生の援助を得て引っ越しが行われたのが昭和33年5月17・18日でした。ここに悠元寮が出発したわけです。この当時はまだ全寮連が結成されてなかったので政府文部省からの攻撃がどういうものかも十分にわからず、又全国の寮の闘いも知る事ができず、闘いはまさに”手さぐり”の状態でした。しかし、寮生は委員会・特別委員会のもとに固いスクラムをくんで闘いを進めたのです。

このようにして勝ちとってきた前悠元寮も女子学生数の急増や下大久保に大学が統合移転し交通条件も保障されず施設設備の面でも劣悪な状態で寮生をはじめ「埼大女学生の希望者全員が入れる民主的新寮を大学のそばに建てよ」という要求は切実なものになってきました。

寮生は大量情宣活動・アンケート調査活動・署名活動を部屋やブロックを基礎に全寮連に固く団結し闘ってきました。寮生は先輩たちの闘いの教訓を生かし”住みよい新寮を我々の手で”を合言葉にありとあらゆる要求を出し合い、また文部省の学寮政策を学習しながら、委員会、緑のスクラム(新寮建設実行委員会、昭和46年9月結成)を中心に数えきれない程の団体交渉を重ねてきました。そして昭和46年に新寮予算を遂にかちとり47年7月15日蒼玄寮生の援助を受けて入寮したのです。ここに鉄筋4階だての現悠元寮が発足したのです。

しかし問題はこれで尽きた訳ではありません。文部省は不当にも独自の食堂をつけず、定員も150名の予定を80名に削減したのです。

現在寮生の独自食堂を求める声は強く、又、入寮希望者はとりわけこのインフレ・不況の中で急増しており、増寮は緊急の切実な要求となっています。そして移転時の夏、大発生した”アオバアリガタハネカクシ”による被害から端を発した環境整備の完全実施や蒼玄寮と同じくフロ削減固定と負担区分値上げ攻撃に対する闘いというように、多くの課題があります。

私たちは、先輩の血と汗のにじむような闘いのなかで築き上げてきたこの悠元寮を更に守り発展させなければなりません。

明るく豊かで自由な寮と寮生活めざして全寮生のスクラムでがんばっていきましょう!

全寮連紹介

第二次世界大戦によって家を焼かれ家族を失った学生は、兵舎や軍需工場から再び学園にもどり、前途への不安と政府や大学の軍国主義教育に対しての怒りを抱いて生活を始めました。

先輩たちは、まず住生活の保障として、今までの学寮では足りず、兵舎・馬小屋・倉庫・工員寮を改造して住みつき学寮としました。(現在でも文部省の政策により全国で数多くの寮が放置されています。)こうして住む場所をつくってきた先輩たちは、学園での軍国主義者の追放、進歩的・良心的教官の復職、学園の民主化などを要求して闘いました。そして、こうした闘いの成果の中で、学園での自主的活動を復活させ、学寮の舎監制なども廃止させ、学寮を軍国主義の立場から、民主教育と教育の均等を守る厚生施設・勉学の場・自主的民主的人間形成の場としていきました。

しかしこうした成果も1948年の「日本を反共の防壁としアジアの兵器庫とする」という米陸軍ロイヤル長官の宣言や1950年、朝鮮戦争が始まり、アメリカが日本をアジア支配の根拠地にしようとするにつれて脅かされていきました。寮生の生活と権利を破壊する攻撃も系統的になり、寮費の値上げ、寮規定の改悪が一斉に行われ、寮生は自分たちの寮だけで闘っても、なかなか要求が実現しないことを知りました。そして、その実現のためには、各大学各地方ごとの連合組織が必要であることを感じ、全国に先がけて1952年に東京都学生寮自治会連合が結成されました。

全国的にも全国寮生の団結こそが寮生の要求を実現する武器であることが全国寮生の強い声となり、1954年に全国学生寮協議会を経て、1958年に全寮連(全日本学生寮自治会連合)が結成されました。こうして結成された全寮連は、「明るく豊かで自由な寮生活と日本の平和と民主主義」を築きあげるために、全国寮生の団結の場として日々発展してきました。そして73年7月で創建時の2倍の寮の204寮となり、現在では301寮が加盟しています。また全寮連機関紙「緑の旗」は、全国寮生の交流の場、闘争の武器としての役割を大きく果たしており現在全国で1万54名の読者がいます。

全寮連と寮運動は、1964年の第6回大会で基本方針を定めて以降、飛躍的に発展し、また寮内ゼミ、討論発表会、寮の集団生活を生かした学問研究活動や文化スポーツ活動、更には部屋、ブロックでの日常生活を通じた交流の中で生き生きとした寮生活を発展させていきます。

こうした寮運動の前進と全国寮生の強化の中で、政府文部省は71年6月の中教審答申に基づいて、学寮の解体再編攻撃をうちだし、大学と学寮を政府文部省と独占資本の管理統制下におき、独占資本の利益と軍国主義復活に総動員することを狙っています。73年9月に強行された筑波大学はまさに解体再編の具体化でありそこではもはや寮はなく「寄宿舎」という名のアパートになっています。

こうしたなかで学寮を民主教育と教育の機会均等のとりでとして、また社会進歩のとりで、勉学の場、自主的民主的人間形成の場として、一層発展させるため、全国寮生が全寮連に固く団結して闘うことが増々求められています。

尚、蒼玄寮は全寮連結成時より、悠元寮は67年に加盟しました。そして蒼玄寮からは歴代多くの副委員長、書記長等を送り出しています。

全寮連規約(抜粋)

第2条 全国寮生の団結、寮自治の擁護と完全化、よりよき寮生活に努力し、平和と民主主義と学問の自由に寄与すると共に、人間として生きるに足る諸条件の擁護と拡大のためにたたかい、更に広く社会進歩をめざして絶えず前進することをもって目的とする。

第4条 本連合の支部組織として、地方支部に地方寮連、府県寮連をおく。

第5条 単位寮の加盟及び脱退は、書記局に申し出、中央執行委員会の承認を得なければならない。

第6条 大会は本連合の最高機関である。

第7条 大会は、代議員と大会選出役員及び中央執行委員によって構成される。代議員は寮生百人に対してひとりの割合で選ばれる。定期大会は、年一回開かれる。但し次の場合臨時大会を開くことができる。

(1)中央執行委員会が必要と認めた場合

(2)三地方寮連以上から要請された場合