悠元寮・蒼玄寮の母体となった、埼玉県女子師範学校(女子師範)と旧制の浦和高等学校(浦和高校)の寄宿舎開設から、学寮の大久保キャンパスへの移転完了までの沿革です。
各資料から写真も引用して示しています。
埼玉県女子師範学校の開校
1901年 (明治34年) |
3月18日 | 文部省より埼玉県女子師範学校の設置が許可される (全寮制で浦和高等女学校に併置、場所は現在の埼玉会館の辺り) |
出典1 |
7月1日 | 女子師範に40名が入学 | 1 | |
1902年 (明治35年) |
9月 | 女子師範の校舎の裏に、2階建ての寄宿舎が完成(第一生徒寄宿舎) | 1,2 |
1903年 (明治36年) |
1月 | 女子師範の第二生徒寄宿舎完成 | 1 |
1904年 (明治37年) |
2月8日 | 日露戦争開戦 | |
2月19日 | 女子師範の寄宿舎に電燈が入る | 1 | |
1905年 (明治38年) |
9月5日 | 日露講和条約(ポーツマス条約)調印 | |
1909年 (明治42年) |
1907年からこの年にかけて浦和高女の寄宿舎が新設され、以降寄宿舎二棟は女子師範専用に | 1 | |
1913年 (大正2年) |
女子師範、情状によっては通学が許可に | 1 |
女子師範寄宿舎の様子
開学当時の様子。(「百年史」より)
寄宿舎 別になく、講堂に全部畳が布き詰められ、壁に添うて押し入れ様のものが張出し式にとりつくられ、白い幕で其の前面を掩う様にしてあり、上下二段に仕切られて、上段に寝具、下に行李類を入れる様にしてありました。そしてここが自習室兼寝室で、講堂本来の目的に使用せられたのは、勿論で御座います。私達の入学式も、この畳の上であげたのですから、笑ってはいけません。
明治35年の様子。(「三ヶ島葭子日記(上巻)」より)
四月二十八日 月 快晴
はじめていねし寄宿舎のまどのやうやう白みきて朝日もさしいでし頃、起床のかねとともに起きいで皆人とともに髪結ひかほなど洗ひて朝げを終わり、暫し休みて教室にゆき国語の教えを受く(後略)
六月二十日 金曜日 快晴
(前略)よひよひに雲間をすぎてつゆの間にはや望月となりにけるかな
窓のとにしげる青葉のかげしげき月の光の枕にさして、同じ窓の友人と親しく語る程に、いつか夢路も打ちすぎけん。立こむる朝霧に町家の屋根庭の木立もあらはれて起点のかねとおきいでぬ。
九月十五日 月 快晴
新築寄宿舎に入る
(中略)それより学校に入り新築寄宿舎に入り、浦和病院にゆきて健康診断書を受け帰りて十室に入りしがさきに五室にありし時の人四人ありき。いとよろこび金子、松村様とともに夕食を終へて消燈の鐘と共にいねたりしはいかに楽しかりしか。
浦和高等学校の開校と女子師範学校の移転
1921年 (大正10年) |
12月 | 勅令432号により浦和高等学校の設置が決定 (場所は現在の北浦和公園・浦和北公園) |
4 |
1922年 (大正11年) |
4月10日 | 浦和高校に第一回生が入学 | 4 |
5月17日 | 浦和高校の寄宿寮(東寮の三寮)が開寮し、98名が入寮(場所は現在の常盤小学校) | 3,4 | |
二学期に西寮の一棟(西三寮)も開寮 | 3 | ||
1923年 (大正12年) |
4月 | 浦和高校の西寮の二棟(西一寮、西二寮)が開寮 | 3 |
9月1日 | 関東大震災 | ||
11月25日 | 女子師範の寄宿舎が六辻村別所に移転(現在の附属中学校敷地の北東側) | 1 | |
1924年 (大正13年) |
9月14日 | 女子師範の校舎が六辻村別所に完成(場所は現在の附属中学校) | 1 |
11月25日 | 同、移転 | 1 | |
1925年 (大正15年) |
女子師範、寄宿舎を増築 | 1 | |
1929年 (昭和4年) |
浦和高校の寄宿寮にて自治権要求運動起こり、「寄宿寮」から「自治寮」と呼ばれるようになる | 4 | |
1935年 (昭和10年) |
12月4日 | 浦和高校の自治寮を「武原寮」と命名(自治を返還し当局の統制へ。呼称され始めたのは翌年より。) | 3,4 |
1937年 (昭和12年) |
7月7日 | 盧溝橋事件 |
戦禍と終戦
1941年 (昭和16年) |
12月8日 | 太平洋戦争開戦 | |
1943年 (昭和18年) |
1月21日 | 高等学校令の改正、高等科の修業年限が2年に短縮 | |
3月8日 | 改正師範教育令及び師範学校規定公布 | 1 | |
4月1日 | 同、施行 | ||
埼玉県師範学校と女子師範が統合し官立埼玉師範学校に 県師範のそれぞれは、そのまま官立師範の男子部と女子部に移行 |
1 | ||
6月 | 埼玉師範女子部寄宿舎、南寮北寮新寮を五寮に編成 | 1 | |
学徒戦時動員体制確立要綱を閣議決定 | |||
10月21日 | 神宮外苑にて学徒出陣の壮行会 | ||
1944年 (昭和19年) |
1月 | 緊急学徒動員方策要綱を閣議決定 | |
1945年 (昭和20年) |
3月18日 | 決戦教育措置要綱により4月より教育の停止が決定 | |
5月22日 | 戦時教育令により教育の停止が法令化 | ||
5月25日 | 空襲により浦和高校の本館、講堂、生徒控所等の建物が焼失 | 4,5-1 | |
8月14日 | ポツダム宣言受諾決定 | ||
8月15日 | 未明に熊谷空襲、正午に玉音放送 | ||
8月25日 | 浦和高校にて授業が再開 | 5-1 | |
9月2日 | 降伏文書調印 | ||
10月 | 武原寮にて自治寮復活の寮生大会 | 4 | |
1946年 (昭和21年) |
2月23日 | 高等科の修業年限が1943年の改正前の3年に戻る | |
6月までに浦和高校は軍の工員宿舎四棟を入手。うちの2棟を北寮とする(二階が寮、一階が教室) | 4 | ||
6月 | 浦和高校にて、戦後初の入学生を迎える | 4 |
埼玉大学の開学と学寮開寮
1947年 (昭和22年) |
3月31日 | 教育基本法、学校教育法発布。新制大学が法制化される | 5-3 |
1949年 (昭和24年) |
3月18日 | 大学設置委員会の答申により、埼玉大学の設置が内定 | 5-3 |
4月 | 「埼玉大学浦和高等学校」及び「埼玉大学埼玉師範学校」発足 | 1,4 | |
武原寮の西寮・北寮を閉鎖。寮生は東寮の2階に移動 | 4 | ||
この頃に、北寮及び旧軍の工員宿舎2棟・食堂棟を埼玉大学男子学生寮に当てること、埼玉師範学校女子部の寄宿寮をそのまま女子学生寮に割り当てることが決定したと思われる | 5-1 | ||
5月31日 | 国立大学設置法施行 文理学部・教育学部からなる埼玉大学を設置 |
5-3 | |
7月16日 | 第一回入学式 | 5-3 | |
7月18日 | 授業開始(実質的には9月より) | 5-3 | |
10月 | 男子寮・女子寮を、それぞれ蒼玄寮・悠元寮と命名 | 5-2 | |
1950年 (昭和25年) |
3月 | 浦和高校閉校 | 4 |
1951年 (昭和26年) |
3月31日 | 埼玉師範学校閉校 | 1 |
9月8日 | サンフランシスコ講和条約調印(GHQ廃止、戦後処理の終了) |
蒼玄寮・悠元寮の名前の由来
昭和24年10月、学生寮は初代学長の新関良三氏により蒼玄寮・悠元寮と命名された。(「りべるて創刊号」、1952より)
ゲーテの『ファウスト』の第二部第三幕に “Immer boher muss ich steigen,Immer weiter muss ich schauen” という対句がある。いよいよ高く私は登らねばならぬ。ますます広く私は見ねばならぬ。この句を口にするのは、ファウストとへレナとの間に生まれたオイフォリオンである。ファウストは近世精神を代表し、ヘレナは古代精神の代表者である。ヨーロッパ近世とギリシャ古代とを綜合して、そこから或る第三的な新しいものが作られねばならぬ。そしてその新しいものが活躍する舞台は、古代に較べても、近世に較べても、もっと高くもっと広いものでなければならぬ、と云う意味がそこに含蓄されてをる。オイフォリオンは余りにも浪漫的であったがために高い頂きから失墜するげれども、新しいものが作られるのには、いくたびかの試練が必要である。浪漫的であること、試練に会うこと、これはむしろ青年の特権 (?) であろう。まして理念の上において、いよいよ高く昇り、ますます広く見ることに至っては、青年のより大きな特権であろう。青年を愛する私には、このゲーテの句が特に好きであり、私自身の座右の銘ともしている。蒼天高く、万有は玄として極まりなく拡がってをる。寮生諸君、ひろく高く、志を遊戎させたまえ。
学寮文化の開花
1952年 (昭和27年) |
6月7日 - 9日 |
第一回埼玉大学寮祭 | 5-3 |
この年、学寮の文集「りべるて」が創刊 | 7 | ||
この年、東京都学生寮自治会連合が結成 | 6 | ||
1954年 (昭和29年) |
全国学生寮協議会(全寮連の前駆体)が結成 | 6 | |
1955年 (昭和30年) |
7月7日 | 埼玉大学学寮内規(当局による規定)施行 | 8 |
この頃、悠元寮にて「寮改善促進委員会」が結成 | 6 | ||
1957年 (昭和32年) |
3月30日 | 蒼玄寮第2棟補修工事完成 | 5-3 |
8月31日 | 蒼玄寮第3棟補修工事完成 | 5-3 | |
1958年 (昭和33年) |
3月31日 | 悠元寮第1棟、第2棟および食堂等新営工事完成(付属中学校の南、現在は住宅地) | 5-3 |
5月17日 - 18日 |
悠元寮生、新寮へ引っ越し | 6 | |
8月30日 | 蒼玄寮第4棟補修工事完成 | 5-3 | |
この年、全寮連(全日本学生寮自治会連合)が結成、蒼玄寮が加盟 | 6 | ||
1959年 (昭和34年) |
8月31日 | 蒼玄寮第5棟補修工事完成 | 5-3 |
1960年 (昭和35年) |
8月31日 | 蒼玄寮第6棟補修工事完成 | 5-3 |
移転統合と大学闘争
1964年 (昭和39年) |
7月1日 | 工学部(翌年理工学部に改組)を皮切りに大久保地区(現在の埼大キャンパス)への移転が始まる | 5-3 |
この年、工学部の移転反対運動起こる(埼大における大学闘争の始まり) | 5-2 | ||
1967年 (昭和42年) |
12月 | 国際興業・西武両バスが、北浦和-大久保地区間の運賃値上げ(20円から30円)を発表。これに対する反対運動起こる | 5-1 |
この年、悠元寮が全寮連に加盟 | 6 | ||
1968年 (昭和43年) |
バス問題と、学寮の移転反対及び「○管規」反対で、大学当局への交渉要求・威圧が始まる(大学闘争の拡大) | 5-2 | |
1969年 (昭和44年) |
5月20日 | 蒼玄寮、保健室及びボイラー室(大久保地区)完成 | 5-3 |
(他の建物の記事はないが、これをもって大久保地区の蒼玄寮は竣工したと思われる) | |||
12月11日 | 教養学部の移転完了をもって、埼玉大学の移転統合が完了 | 5-3 | |
埼大における大学闘争は移転統合終了により収束 | 5-1 | ||
1970年 (昭和45年) |
1月30日 | 蒼玄寮寮生大会にて、新寮入寮を決定 | 6 |
2月 | 一度決定された学寮規定(当局による規定)が白紙撤廃される | 6 | |
1971年 (昭和46年) |
9月 | 悠元寮、新寮建設実行委員会結成 | 6 |
1972年 (昭和47年) |
3月31日 | 悠元寮(大久保地区)完成 | 5-3 |
7月15日 | 悠元寮生、大久保地区に引っ越し | 6 | |
7月18日 | 悠元寮の大久保地区への移転完了 | 5-3 | |
1973年 (昭和48年) |
2月5日 | 埼玉大学学寮規約(寮生による規定)発行 | 8 |
参考資料
- 「百年史 埼玉大学教育学部」百年史編集委員会編、1976
- 「三ヶ島葭子日記(上巻)」三ヶ島葭子著・倉片みなみ編、1981
- 「武原寮正史」浦和高等学編、1943
- 「浦和高等学校史」旧制浦和高等学校同窓会、1992
- 「埼玉大学五十年史」埼玉大学50年史刊行会、 1999
- 「1978年度 新歓パンフレット」1978年度 悠元寮・蒼玄寮 新歓実行委員会、1978
- 「りべるて 最終号」 りべるて編集委員会、1994
- 「規約」1994年度 蒼玄寮悠元寮監査委員会、1994