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89年入寮 後藤

 在寮時は厨房の方々に大変お世話になりました。田中さんは「兵庫田会々長」として、もう言うまでもありません。いつも快くおつき合い下さいました。また、一年生でまだ浦和に不慣れだった頃、衛藤さんの駆るホンダ・アコードに乗って、悠元寮の趙さんも一緒に、今は無き浦和シネマへ映画を観に行ったことも懐かしい思い出です。

 さて、楽しい思い出だけではなく、厨房の方々のご苦労についても少し触れておかねばならないでしょう。

 今回の卒寮式に関連して、平成三年(1991年)三月に書かれた厨房の方々の寄書きが、Web上に掲載されています。ご覧になった方は御存知でしょうが、パートとしてお勤めの調理員さんが、この時は四人しかいらっしゃいません。定員が四人だったのではありません。実は当時、補充が儘ならず欠員状態がしばらく続いていたのでした。

 その理由は明白なもので、給金が安すぎることにありました。初年度の時給600円という設定は既に当時の相場に見合うものではなく、本来なら早々に改善を図らねばならない課題でした。しかし給金の値上げは、寮生からの徴収額を値上げすることも意味しており、簡単に決められることでもありませんでした。結果として、この問題は手を付けぬままにずるずると先送りとなり、そして破綻を招いたのでした。

 当時の資料が手元に無いので正確な日付は書けませんが、同年の夏から秋にかけてのことだったでしょうか、調理員のお一人が、健康上の問題からお辞めになり、ついに三人にまで減ってしまったのでした。もともと厨房の仕事は、夏は暑く冬は冷たいという環境で、結構な体力を要する仕事です。にもかかわらず、全く余裕のない状態に陥ってしまったのでした。欠員による労働時間の増加は健康上の問題もありますが、それ以前に、パートの仕事としてはもはや「割が合わない」ことから、見切りをつけて更にお辞めになる調理員さんが現れたとしても、決しておかしくはない状況でした。

 ここに至って、ようやく給金の見直しが寮内で始まったのですが、直ちにと言うわけではなく、その年の暮れの定例代議員大会を待って改定されました。実際に調理員さんの人数が定員に戻るまでには、さらに日数を要したように記憶しています。つまり、それまでの数カ月という期間、寮食堂は厨房の方々の頑張りに依存して維持されていたのでした。残った三人の調理員さんで辞める方は無く、皆そのまま務めて下さいました。もちろんそこには、田中さんと衛藤さんのフォローが、蔭に日向にあったであろうことは想像に難くないことです。

 この度の「卒寮式」のお知らせに、小山田さんと西田さんのお名前を見出したとき、大変に感慨深いものがありました。このお二方こそ、平成三年以前からお勤めの調理員さんでいらっしゃるのです。受験のスローガンで「継続は力なり」というものがありますが、この言葉の裏には、一つの物事を継続していくことが如何に困難であるかという意味合いがあります。事実、ここで記したような厳しい時期もあった訳です。にもかかわらず、ついに今日の卒寮式という日を迎えるにまで到ったということは、寮食堂を支えるために、食堂に関わる皆様もまたお互いに支え合ってきたことがもたらした、実に誇らしく、晴れがましい、極めて象徴的な成果と言えるのではないかと思います。

 本当に皆様、お疲れさまでした。寮食堂の終りが、皆様の新しい門出にならんことを、心よりお祈り申し上げます。