世相・事件・流行歌

埼京線開通!

 雲ひとつない秋空(たぶん)に祝福されるかのように、9月30日、池袋と川越を猛スピードで結ぶ埼京線が開通。これにより、埼玉大学の最寄駅は、およそ4キロ離れた北浦和駅から、その半分以下の近さにある南与野駅へと移り変わった。寮生は「これで東京が近くなった」「もう埼大通りのバスの渋滞に悩まされずにすむ」と、手に手を撮って喜んだという。開通当時の南与野駅周辺は、民家も店も、見事なまでに何もなかった。今もあるかどうかわからないが、昔からあった「埼玉や」という食堂が、いきなり駅前(といっても、けっこうな距離)の食堂となったのが印象的であった。

86年3月 芳賀さん、高橋さんが寮を去る

 炊フの芳賀さん、お掃除の高橋さんが寮を“卒業”。2月に大送別会が行なわれる

風俗探訪友の会

 寮内の片隅でひそかに結成されていた「風俗探訪友の会」の活動が、2月の新風営法の施行で大打撃を受ける(なぜ?)。

11月 第1回SWGP開催

 寮食堂で男の力と力、意地と意地、汗と汗、肉と肉がぶつかり合った! 1985年11月15日午後9時、第1回S.W.G.P.の開幕である。
 特設リングには、出番を今や遅しと待ち構える屈強な男たち。誰もが、今日の日のために特訓をつんできた……つもりには少なくともなっていた。今日のリングを制するのは誰か! 今、蒼玄寮最強伝説が始まろうとしている!

S.W.G.P.とは?

「蒼玄寮レスリンググランプリ」の略。81年入寮の某・千葉さんが5年生の時、寮祭の一環として企画。「しまやグループ」を中心に、それぞれの個性に合わせたリングネームとレスリングスタイルで激戦を繰り広げた。大技、小技の応酬や、技よりも口で勝負するレスラーもいて、見ごたえ十分。蒼玄寮生は血わき肉踊らせながら、悠元寮生は目をそむけ、いや、目を潤ませながら勝負の行方を見つめたという。

 翌年に第2回、翌々年に第3回と順調に発展し、第4回の準備も進められていたが、直前になっていきなり中止が決定。原因は、主力選手にケガが相次いだためだった。3年間という一瞬の輝きだったが、あの感動と興奮は、当時を知るもののあいだで今でも語り草になっている。

☆第1回の出場選手☆

〈SWA〉哀愁の石頭●ジョージ・トコロ、歩く富士山●ガリバー三代、暴力革命戦士●マスクド・サンリズカ、吸血鬼●ブラッシー小田嶋、リングの通り魔●グンジー川又、オダワラ・ブロンコ●パンチョス石井、勝利のプレゼンター●堤サンタクロー、歌って踊れるプロレスラー●メガホン山田、SWAの若き王者●マンモス松井〈NWF〉NWFの若トラ●タイガー・ケン、闘う一寸法師●ピグモン明石、オリエンタル・ミステリー●コテ・メンドーサ、スペースバンパイア●オーラル合浦、リングの無責任男●タイガー・ジェット・ジャッカル赤間、いつもいいツモ●グッド・ツモリアーズ、NWFの帝王●ザ・スコーピオン

皇居ロケット弾事件で寮に警察が来襲

 86年3月 某団体が皇居とアメリカ大使館にロケット弾を打ち込む。関係者(当事者?)が寮に住んでいたため、警察が寮にやってきた。その関係者はブロック討論でT氏に説教される。

寮内に猫が大増殖(うんこたれ入寮)

 寮にたくさんいた猫の中で、もっとも親しまれていたのが、推定85年入寮の「エリザベート・なんちゃらかんちゃら・うんこたーれ」(たぶんメス)である。名前の由来は、あちこちの部屋で、よくうんこをたれたから。
 99年の春まで元気にうんこをたれていたが、ある日、寮生のひとりが、北一西のベランダの下で、すでに息を引き取っていた彼女を発見。田中英雄さんとふたりで、南東と北東の貯水槽近くの桜の木の下になきがらを埋めた。みんなにかわいがられていたせいか、今のところ、バケて出るという伝説はない。

某蒼玄寮生が岩手大・自啓寮を訪問

 1985年、ひとりの蒼玄寮生が、べつに頼まれもしないのに、べつに用もないのに、岩手大学の自啓寮をいきなり訪問。「蒼玄寮生魂」を見せ付けました。
 以下は、本人によって書き記されたレポートです。当時の雰囲気を味わい、その偉業に敬意を表しつつ、じっくりお読みください。

『岩大自啓寮訪問記』

 1985年の何月だったか憶えていませんが、とにかく私が5年生のときのことです。故郷盛岡にある国立大学「岩手大学」の学生寮に、アポ無しで単身乗り込んだことがありました。もちろん、知り合いはナシ。「学生寮に住む者なら、なんとなく理解しあえるだろう」という希望的観測の元に……。
 岩手大学には、現在でも4つの寮があります。工学部の「同胞寮」、農学部の「自啓寮」、教育学部の「北謳寮」、そして女子寮の「紅梅寮」です。このうち、キャンパス内にあるのが同胞寮と自啓寮なのですが、当時、高校時代の同級生か誰かに話を聞いたとき、「同胞寮はセクト(中核だったか革マルだったか民青だったか忘れました)の巣窟だから、やめたほうがいい」とアドバイスされ、農学部の自啓寮を訪問することにしました。
 私の訪問着は、学ラン・革靴に一升瓶(たしか銀盤の『播州50』)という、スタンダード(?)なものでした。学ランの着用については、私が大忘年会の主催グループの一員だったこと・寮歌を推進する立場にあったことにも関係ありますが、何より、盛岡というところが「バンカラ」の気風が強い土地だったので、一応地元出身としては「ハッタリかましたい」という気持ちもあったからです。

 岩大(地元では「ガンダイ」と発音します)の向かいにある「盛岡一高」の応援団幹部は、いまだに真冬でも、先輩から受け継いだボロボロの、学帽・学ラン・マント・素足に下駄という時代がかった格好で市内を闊歩しています。信じられないでしょう?
 それに比べたら、学ラン・革靴に一升瓶など、かわいいもんです。

 自啓寮の玄関を入ると、蒼玄寮のロビーよりも薄暗く、広さや奥行きもありませんでした。通りがかった寮生に寮委員会の人を呼び出してもらって、今夜ここに泊まりたい旨を伝えると、応対した寮委員は「はぁ、宿泊料の400円と、貸し布団代の……」と、聞き慣れた(蒼玄寮でも同じだったはずの)規則を言いはじめました。
 私が「いや、そういうことじゃなく、そうでもいいんだけど……」といって一升瓶を差し出すと、「あぁ、そうですか……。じゃ、こちらにどうぞ」と言って、いぶかしみながらも委員会の部屋に通してくれました。
 私が通されたのは「文化部」の部屋だったと思います。部屋の方(確か2~3年生だったと思います)が、「やっぱ、寮委員会といえば『文化部』ですよね~♪」と言っていましたから。きっと、さまざまな行事(新歓や寮祭など?)を取り仕切る、ゴキゲンな部署だったに違いありません。
 たぶん、季節はある程度寒いころだったと思います。コタツが出ていましたから(ただし盛岡では、梅雨頃までコタツを出したままでいることもあるので、秋や冬とは限らないのですが)。
 自己紹介をしてコタツにあたり、とりあえず持参した酒で乾杯。夕方だったのでしょう、誰かが気をきかせて「寮メシ食べますか?」というので、部屋に持ってきてもらい、ありがたくいただきました。残念なことに、メニューはまったく記憶にありません。ただ、米の匂いが蒼玄寮のものとは違っていたことは印象にあります。
 そのうち、 4年生も登場してきました(委員会ではなかったはず)。「先輩もいらしたので、どんどんやりましょう」というわけで、本格的に飲み会の体勢に。
 廊下のスピーカーからは「寮内放送、寮内放送。○○号室に、他寮からの来客。飲みたい人はコップを持って……」と、やけに「伝令」みたいな口調での放送がありました。
 いつのまにか、狭い4人部屋には15人程の寮生が集まっていました。
 
「自己ォォ紹ォォ介ッ!」『ウォォ~!』
「岩手ェ県立ゥ水沢高等学校ォォ出身ッ!」『名門ッ!』
「農学部ゥ農芸化学科ァ3年ッ!」『イヨォォッシ!』
 ……という調子で「合いの手」が入る自己紹介が始まりました。
 当然私も負けじと「埼玉ァ大学ゥ教養学部ゥ教養学科ァ5年ッ!」と返します。
 なんだか「花見」(入学式の前に、第二生協前でやる、アレですよ)のときの1年生に戻ったようで、気持ち良く叫びました。

「5年生」という私の自己紹介に「ウチは4年も5年もいっしょだから…」と、自啓寮の4年生氏。岩大の寮では、留年生の在寮は許されないとか。
「この辺が、5年生・6年生という呼び方が通用する蒼玄寮とは大きく違うところだなぁ」
 ……と感心しつつ、酔いは回っていきます。
 私も自啓寮の4年生氏も、どちらも自分の寮に誇りがあって、いろんなことを自慢しあってたように思います。しかし、その頃にはほとんどベロベロに酔っぱらっていたので、細かい内容はまったく憶えていません……。
 翌朝、コタツの中で朦朧とする私の脳みそに、「俺ンとこの研究室のトラクターは60馬力だぞ」「うちのは100馬力だって知ってっか?」という、『オラが研究室のトラクター自慢』が響いてきました。
「う~ん、農学部ならではだなぁ…」と、まるで深山でキツツキの音を聴いたような感銘を受けました。
 前夜の話の中で、獣医学科のマスターに高校の同級生の女の子がいることが判ったのですが、二日酔いがひどくて尋ねる元気もなく、岩大農学部を後にしました。
 
 ふり返ると、自啓寮は蒼玄寮に対して「定年あり」「単独学部」という点で異なっていました。もちろん、両者それぞれにメリットやデメリットがあるはずです。

「定年あり(留年生の在寮を認めない)」という点について言えば、蒼玄寮には「定年なし」に甘えて、だらしない生活を送ってしまうというデメリットが、(私も含めて)数多く見られました。
 まぁ、これとてデメリットだけではないと私は思っているのですが……。「国民の血税」が注がれている以上、大手を振ってモノを言える立場ではありませんね。
 一方、「学部別」という点では、農学部の学生だけが集まっている自啓寮よりも、さまざまな学部の混在する(文集で誰かが言ってましたね)「人種のるつぼ」状態の蒼玄寮の方が、刺激的・かつ創造的だったのではないかと想像します。
 そして何よりも……。
 女子寮が隣接し、なおかつ共有する食堂があったことで、多くの「成功?」や「失敗?」が生まれたことは間違いありません。
 ディスコのようにダイレクトな接触を狙った「催し」から、食堂の日常的な「風景」の中にまで、我々の寮生活には男女の「求め合うエネルギー」が、豊かな地下水のように流れていたのでしょう。
 こんないい所、他の大学にもあったんでしょうかねぇ……?
 ……ちょっとズレてしまいましたが、前述の「定年制」「学部別」などの点について、皆さんはどのようにお考えになりますか? 特に、他大学の学生寮を訪問された経験のある方、ご意見をお待ちしております。