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埼玉大学蒼玄校 寮自治学部寮生活専攻 8年
藤原 4西→3東

 長かった大学・寮生活にやっと終止符が訪れました。私も晴れて卒業・卒寮です。しかしながら、振り返ってみると昨日の事のような思い出がたくさん出てきました。

 私が寮に入ったときは、当時生協前で行われた2西ブロック主催の花見の日であり、初めて飲んだお酒は日本酒でした。「まず、自己紹介を覚えてもらおう。間違えたら空けるんだぞ!それから、先輩に注がれたら空けるのだ。」と先輩たち。「はい。」と忠実に実行した私は翌朝寮で目覚めて「どうやって帰ってきたのだろう?」と思ったものでした。その後の新歓イベントでも必ず酔いつぶれて、「酒を飲む=記憶無くなるまで飲みまくる」という刷り込みが定着してしまいその後ずいぶん苦労しました。泥酔した私を介抱してくださった諸先輩には感謝しております(まぁ飲ませたのだからそれなりに責任はとってもらう必要があるのでしたが…)

 新歓で一番覚えているのは、当時は「はんこ取り競争」という企画があって、悠元寮が3日間ぐらい10時~17時の間開放されました(普段は男子禁制でした)。その日のその時間は悠元寮にずっといました。蒼玄寮とは大きく異なる点は2段ベットの所が畳で、横に布団を並べ、日中布団を押入れにしまい、コタツなどが置かれていた事。コタツに入ってクッキーを頂きながらお喋りしていました。今では嘘の様ですけどほんとです。とりあえず押印だけという事も有りましたが、趣旨は「いろいろ話して仲良くなった印に印鑑を押してもらう。」でした。270人ぐらいから貰って優勝したけど趣旨を達成したかどうかは疑問です。後はサリン事件の直後だったので地区別運動会で応援合戦があった時に、「ショーコー」ってオウム真理教の仮装してた地区がありました。当時そっくりな人がいたのです。

 6月にはスコーピオという3・4西ブロック主催のカクテルバーを開催しました。悠元寮一年生にウエイトレスを頼んで、第2・第4土曜日は完徹でシェーカー振ってました。これは私が寮に入って98年に無くなったような。とっても素敵な看板があったのですが、僕が駒場寮に出向していた時期にあった火事で焼失したと言う事で残念です。

 昔は寮祭が2回あって、むつめの時期に寮祭がありました。この当時は12月の初めで今は無き大宮のスケート場で「スケート祭典」があって、雪国出身の私は楽しく滑っておりました。寮祭が無くなったのは「納涼祭と企画がかぶるし、むつめと時期が重なる。」という理由だったような気がします。

 12月と言えば「大忘年会」もこの時期でした。蒼玄寮生だけで「旭正宗」という日本酒を枡で飲みながらの忘年会でOBも併せて80人ほどでしたが、これも四年生の時に無くなりました。理由は何故か悠元寮に入るという慣習(悪習)があって、96年に警察がきて、97年の時にも再びきて、懲りずに98年にやろうとしたようですが大学側に禁止されました。大忘年会の消失と期を同じくして「うんこたーれ」(私はうんにゃと呼んでいた)という寮の大先輩の猫が死去しました。正確な日時は不明なのですが、1西のベランダの下で遺骸が発見されたので、田中さんと一緒に、南棟と北棟の間の貯水槽近辺の桜の木の下に埋めました。

 寮委員会では、学寮運営委員会を95年6月~97年5月まで4期2年やったのですが、その間は毎期休み期間中に委員会合宿といって、青年の家などで三日間ぐらい泊まりこんで寮自治とかの勉強をしました。レポートを書くのですよ。「予算について」とか「新歓について」とか「建て替えについて」など。委1に残ってたのをこの前読み直したら、我ながら稚拙な文章だなァと…恥ずかしくなりました。

 余談ですが95年の6月の代大では、「寮の下水を大学で処理していたのが県の下水道整備に伴い、下水道料金640円分寮費を値上げする。」というのが出ていました。

 休湯日といって四日に一度風呂に入れなかったのが、その日をシャワー日として毎日風呂を利用できるようになったのは96年でした。旧第二体育館のシャワーを休湯日はみんな利用していましたが、痴漢騒ぎなどもあって、担当の悠元寮生が交渉して実現に至ったのを覚えています。各部屋に電話がついたのは98年だったような。一つ下の後輩たちが頑張っていました。実現までは長い道のりだった課題の一つです。

 96年からは、今は脱退している全日本学生寮自治会連合の中央執行委員として二ヶ月に一回ぐらい東京に会議に行っていました。そっちの企画では96年:日本福祉大学の寮、97年:東京農工大学の寮、98年:三重大学の寮、99年:静岡大学の寮、00年:福島大学の寮でそれぞれ夏にサマースクールというのがあって楽しかったです。98年に副中央執行委員長として駒場寮に出向して蒼玄寮から3年間離れた時期もありました。もっとも何かのときに「全寮連なんかやって迷惑です。」と寮生の誰かに言われたりもしましたが…ちょっぴり複雑な気持ちでした。肯定と反発両方です。駒場寮では98年に数ヶ月ロウソクだけで生活する事になったり、ねずみと共同生活など色々大変な思いもしました。実際は99年3月で全日本学生寮自治会連合の方を蒼玄寮は脱退(悠元はその一年前)してしまったので、余分に2年間ぐらいいた事になります。駒場寮生の印象としては自主的に様々な事に挑戦して生活をいろいろ工夫していたというのがあります。寮の掃除なんかも寮生自身で無償でやっていました。自分の生活を護るために他の寮生に干渉したりもしていました。そこが驚きであり、新鮮でしたね。「自分が困る事になるから教育するのよ」と誰かが言ったのを覚えています。もっとも何かのときに「全寮連なんかやって迷惑です。」と寮生の誰かに言われたりもしましたが…

 01年3月に蒼玄寮に戻ってきて3東ブロックに住むことになったのですが、寮に不在だった間に図書自が燃えたとか、横領事件があったとか、96年に5年後に建て替えだといっていたのに何故か建て替えが5年後だと聞いたり、ビックリしました。01年の夏にリニューアルした図書自にLAN回線が導入されましたね。遅まきながら教育実習に行ったのはこの年でした。

 02年は今回の食堂の件があり、非常に残念な思いで一杯です。また、NHKが集金に来るなどの出来事がありました。

 

 今おもえば、寮の悪い面にはまってずいぶんだらしない生活を送ったりもしましたが、学生寮という集団生活の場において様々な道徳的葛藤に出会い、「成長したなぁ」と感じています。もっとも他人を見ればもっと凄い奴がたくさんいるのですが…

 今回、「厨房の皆様の卒寮式・送別会」の実行委員会に参加して、改めて「学生寮は課外教育の場」なのだなぁと再認識しました。たくさんの寮生が集まって、知恵を出し合い、一部の卒寮生の先輩方も交えながらたくさんの会議を繰り返す中で、大学の講義とは異なる、ゼミでもなかなか体験できないような機会に恵まれました。ありがとうございました。もっとも、他のメンバーにとっては、「扱いにくく口うるさいおじさん」だったかもしれません。

 実は「寮に入らなかったらもっとはやく卒業できただろうなぁ。」とも思うのですが、「寮に入らなかったら味わえなかったであろう多くの出会いと成長があった。」という思いの方が強いです。そもそも「寮に入らなくても一緒か、下手したらもっと酷い事になってたかもしれません。」

とりあえず Good Bye!!蒼玄寮 ― 熱き涙の溢る哉 ―