蒼玄寮悠元寮ナビゲーションの第3回は寮の娯楽についてです。

日常の娯楽、コンパ、サークル、と行うことは普通の学生と同様です。しかし中には寮特有なことがらも。

また伝説の突発企画についてもご紹介いたします。

毎日が修学旅行

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これは、悠元寮生(女子寮生)が寮生活の愉楽を表す言葉です。夜遅くまで友人と語り合うことが毎日できる様子を表したのでしょう。

寝る時は、畳に布団を並べて敷くところも修学旅行っぽいのかもしれません。

蒼玄寮生(男子寮生)からは聞いたことがありません。大抵は先輩と後輩が同部屋、寝るときも二段ベッドですから。

日常の娯楽

その代わりに蒼玄寮には「日常生活編」の「寮生の一日」の章でも書いたような娯楽がありました。日常の娯楽は通常の学生と変わりませんが、常に数人で集まるところが寮特有です。

麻雀

麻雀をする居室は決まっており、2ブロックに一室くらいの割合でありました。麻雀部屋の中央のこたつの上は、常に緑のマットと牌、ノートが常備です。

また南棟の5階、屋上に上がる階段の脇には小部屋があり、そこは雀卓が常備された麻雀部屋でした。正式名称は「音楽室」なのですが、通称「南5」。壁に吸音材も使われていたのですが…。

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さよなら蒼玄寮悠元寮南棟屋上より、南5。

ファミコン

冬、暖房器具を使うようになると、各部屋のブレーカーが落ちる前に、なぜか寮全体のブレーカーが落ちていました。

蒼玄寮委員が、ボイラー室にある寮全体のブレーカーを上げるのですが、各寮生が使用機器を減らさない限りは何度でも落ちます。

 

ドラクエ4の発売後のことです。

毎冬の風物詩で寮全体のブレーカーが突然落ちると、真っ暗になった寮のあちこちからと叫び声が。

「アーーー!!」

その月は何度も叫び声が上がりました。セーブはこまめにしましょう。

テレビ・ビデオ

当時はVHSの時代です。レンタルビデオ店から何本か借りてきて、大きなテレビとステレオのある部屋で、みんなで見ていました。ジャンルはその部屋の住人の趣味のものが中心だったように思います。

テレビ番組も同様で、特定の番組をある部屋に集まって見るということをしていました。今で言うパブリック・ビューイングや、ネットでの番組の実況に当たるでしょうか。

そういえば、アダルトビデオを見ていたら悠元寮生が突然入ってきたことも…。

マンガ

マンガもメジャーな週間・月間雑誌は定期的に買う人の部屋に行けば読めましたし、個人所蔵のコミックスもいろいろ読めました。

 

基本的に、広義のソフトウェアあるいはメディアの類は、誰かが買った後は貸し借り・シェアがなされていました。いろいろな趣味に触れられました。

それに住人が帰省する時以外は各部屋には鍵がかかっておらず、誰も居なくても勝手にマンガを読んだりファミコンをしたりしていました。

それでも盗難事件はありませんでした。あるにはありましたが犯人はどこかの高校生だったりしました。

ああ悠元寮には、補食室の冷蔵庫に入れておいた食べ物を勝手に食べられるという「盗食」がかなりありましたっけ。

コンパ

蒼玄寮では、各ブロックで誕生日のコンパが月に1,2回ありました。

それ以外のコンパもありましたし、他のブロックのコンパにも飲みに行きますから、週に1,2回、週末は必ずコンパでした。

悠元寮生もコップを持って飲みに来ていました。

そんな中から、特徴的なブロックのコンパを2つご紹介します。

一西の餃子コンパ

一西ブロックには餃子コンパがありました。文字通り肴が餃子のコンパです。

昼から餃子作りに取り組み、アルミホイルが敷き詰められた左右のベッドいっぱいに、餃子が並べられました。

悠元寮生も舌鼓を打ちました。

南四のコンパ

寮史総合年表の記事です。

  • 1992年度:秋 お月見全裸鯉のぼり伝説が生まれる

この伝説だけでなく、この頃の南四ブロックのコンパは、夜も深け興が乗るとたいてい脱いでいたように記憶しています。「おしり合い~」といいながらお互いに尻を合わせたり、「集ケツ~」といいながら、さながら円陣のように全員で尻を合わせたりしていました。

悠元寮生は途中で帰りました。

娯楽室

蒼玄寮のロビーの裏手には娯楽室1、南棟一階には娯楽室2,3という集会室があり、それぞれ「ごらいち」「ごらにーさん」と呼ばれていました。娯楽室2,3は、襖で2つの部屋に分けることができてそれぞれが12畳の娯楽室2、娯楽室3なのですが、たいてい襖は外され24畳の一室になっていました。

人が多く集りそうなコンパや企画は、これらの娯楽室で行われました。

娯楽室を利用するには、南一ブロックの101号室にいって利用ノートに目的や代表者を書き込む、「予約」が必要でした。また有料で寮外団体(学内のサークル等)への貸し出しも行っていました。

 

娯楽室2,3で行われたコンパの様子を「総合年表」から抜粋します。

  • 33110029341991年度:6月 清道会若頭襲名式
  • 33102357051994年度:4月 悠元爆走族(悠爆)総長 御生誕記念の儀

この2つはこういった企画で、そういう団体が寮内にあったわけではありません。念の為。そして写真のような儀式?の後は普通に飲み会になりました。

3311002301こちらは娯楽室1で行われたコンパの様子です。

DSC_0501これら娯楽室は畳敷きでしたが、2010年に訪ねると娯楽室2,3は板敷きになっていました。
(「さよなら蒼玄寮悠元寮南棟より)

食堂

食堂でもコンパが行われました。

食堂には机と椅子が並んで居たのですが、コンパの場合それらは使いません。

ロビーの隅に畳が積んであったのですが、食堂でコンパをする場合はそれらを運んで並べ、お座敷を作りました。

ホットプレートを使う場合はドラムリール(リール型の電源ケーブル)を使いますが、コードを巻いたままホットプレートを使うと熱が発生するので注意が必要です。

年に数回行われた、食堂の職員さんパートさんと交流する「厨房交流会」は、必ず食堂で行われていました。そしてその翌日は、必ず野球でした。

DSC_0391さよなら蒼玄寮悠元寮」、蒼玄ロビー、風呂、食堂より、机も椅子もなくなった食堂。

食堂ではほかにもたくさんの企画が行われましたが、次回以降の年間行事編で書きたいと思います。

寮内サークル

寮内にはサークル活動もありました。その筆頭は、音楽サークル?バンドサークルのAm(エーマイナー)です。

寮内サークルには、学寮運営委員会よりその活動に応じた活動補助費が支給されるのですが、その配分はAmが最も高額でした。

Amは世代を越えて長い間継続していましたが、そのほかのサークルは主催者が卒寮すると衰退し、消えていきました。

私が記憶しているサークルについて、「総合年表」の記事を交えつつ幾つかをご紹介します。

Am

Amについては「寮史」の寮内バンド大行進に特集されています。

その活動の場は食堂のアコーディオンカーテンの裏でした。

ここにはドラムセット、アンプ、マイクスタンドなどがごちゃごちゃと置かれていました。ピアノも置かれていましたが、こちらは使われていなかったようです。

各バンドにはカーテン裏の利用時間が割り当てられ、練習を行っていました。

FH020017さよなら蒼玄寮悠元寮」、蒼玄ロビー、風呂、食堂より、アコーディオンカーテン裏方向。

そして年に2回、新歓と寮祭の時期に寮食堂でライブを開催し、各バンドは練習の成果を発表していました。

そのステージもカーテン裏で、アコーディオンカーテンがちょうどバンドの交代や準備を隠す幕に使われていました。

寮内バンド大行進より写真をいくつか抜粋します。

エントロピー:82年寮祭

82年の寮祭で見せた雄姿。竹田氏(右)の入念にメイクされたご尊顔は、演奏とともに観客の胸を震わせた。

エントロピー:82年寮祭

同じく82年の寮祭。ギターを弾いているのは、プレアデスの中心メンバーでもあった大木氏。

エントロピー:83年新歓ライブ

83年新歓ライブより。

バトルキッズ

  • 1986年度:自動車サークル・バトルキッズ

メンバーは蒼玄寮生のみで、主に自動車の所有者。その活動は、夜ドライブに行くこと。活動は86年頃からですが、サークル登録は90年だったように思います。

行った先は、湘南平(金網にカップルの錠前が掛けられるようになる前後の時代)、お台場(開発前の松林しかない時代)、秩父方面の正丸峠や顔振峠、そしてゴルバチョフ書記長来日で警備が厳しい夜の東京都庁舎など。

帰りは「キャノンボール」といって、車ごとにルート自由で寮まで競争をしたりもしました。カーナビなどない時代ですから、助手席の人が地図帳を見ながらナビができるかどうかが重要。

バトルキッチン

  • 1991年度:料理サークル・バトルキッチン

この年、土曜日の寮食がなくなり、土曜日に料理を作って食べよう、という趣旨で発足したサークルです。

悠元寮生とお近づきになりたい下心があったことは言うまでもありません。目論見通り、その年の悠元寮一年生の入会希望者がたくさんいました。

しかしすぐに発起の趣旨は忘れられ(入会希望の悠元寮生も放っておかれ、)キャンプと釣りのサークルになっていました。行事での出店もしていました。

サークル名はバトルキッズ、バトルフィッシュのオマージュです。

ネプチューン

  • 1994年度:イベントサークル・ネプチューンが72時間耐久カラオケに挑戦

88年までディスコサークル「マガラジャ」というものがあったのですが、世代は重ならず、その道具を引き継いで、寮食堂でディスコを開くサークルとしてスタートしました。サークル名も最初のディスコの名前そのままです。

その寮内での活動は、新歓と寮祭の時期に寮食堂でディスコを開催することでした。

六本木のディスコで照明の落下事故があった若干年後。学生の娯楽としてはディスコよりカラオケが主流になってきた時代です。「クラブ」などもありません。

 

ネプチューンはそのうち学内進出もし、新歓期の大学会館やむつめ祭(学祭)でディスコの開催もしました。ちなみにむつめ祭でディスコを開催する学内サークルはそれ以前からありました。

それからカラオケにシフトし、総合年表にある通り、むつめ祭で「72時間耐久カラオケ」を3年ほど行いました。ちなみにむつめ祭での「72時間」を冠に付けた企画はこれが初でした。

ごちそうさまでした」に新聞「NEWS De Neptune」が復刻していますので、こちらも御覧ください。

その他の寮内サークル

寮史総合年表より、寮内サークルや、それに準ずる会の記事を抜粋します。

  • 1976年度:生花サークル/社交ダンスサークル・フェニックス
  • 1977年度:資本論の会/地酒研究会
  • 1980年度:ロックバンド・エントロピー/アコースティックバンド・プレアデス/バテルナ山岳会
  • 1981年度:バイクサークル・ねこ
  • 1985年度:風俗探訪友の会
  • 1986年度:自動車サークル・バトルキッズ/野郎会
  • 1987年度:Am(エーマイナー)/アークトゥルス
  • 1990年度:バイクサークル・森本組
  • 1991年度:料理サークル・バトルキッチン
  • 1992年度:世直しサークル・礼ぐらい言え
  • 1993年度:中島みゆき研究会
  • 1994年度:イベントサークル・ネプチューンが72時間耐久カラオケに挑戦

寮の中庭に畑を作るサークル「赤玉土」や、釣りサークル「バトルフィッシュ」、合唱サークル「Chore」などもありました。

伝説の企画

昔話じじい

寮に伝わる数々の伝説を後世に語り継ぐ謎(?)の翁。
日本酒とプロレスをこよなく愛する。

在寮期間が離れている私の世代ではすでに伝説でした。

「カクテルスナック・スコーピオ」の光が回る看板の作成であるとか、先輩が見ているプロレスのビデオ「S.W.G.P.」であるとか…。

本サイトには、それらの企画制作を行った千葉さんの寄稿や記事がありますのでご紹介いたします。

総合年表の関連する記事は以下になります。

  • 1984年度:85年3月 炊フの長沼さん、田中Sさんが食堂を去る/85年3月 大森さん、横塚さん結婚パーティ
  • 1985年度:86年3月 芳賀さん、高橋さんが寮を去る/11月 第1回SWGP開催/某蒼玄寮生が岩手大・自啓寮を訪問
  • 1986年度:臨時カレー屋さん出現

これらの突発企画に関する、千葉さんからの寄稿です。

職員さんの送別会の形や、テスト期間中に食べ物の出店を開くことは、その後も受け継がれていきました。

尚このサイトや総合年表の原型も千葉さんの企画です。

おわりに

以上、寮内の様々なコンパやサークル活動、また伝説の突発企画についてご紹介いたしました。

次回からは「伝統」として確立していた年間の行事について書こうと思います。