新入生

今回から、一年間を通しての行事について書きたいと思います。

まずは春の新歓(新入生歓迎)に際して、行われた数々の企画をご紹介いたします。

新歓の準備

新歓は各ブロックを始め、三委員会(蒼玄寮委員会、悠元寮委員会、学寮運営委員会)、新歓実行委員会、各サークルなど、あらゆるレベルが関わります。

その準備は年が明けたあたりから始まります。

新歓実行委員会

新歓実行委員会は、新歓の行事を企画・運営する委員会です。

新歓は、次回書きます納涼祭や寮祭と同じく、寮の公認行事でした。予算は学寮から出ましたし、役員は選挙にて選任されました。そして終了後には総括を行い、代議員大会で承認される必要がありました。

大学の春休みに、それぞれの企画やパンフレットなどが準備されました。

33110020183311000544卒寮ビデオ」、1992 新歓(1)よりボイラー室上の垂れ幕。また1993より北棟と南棟の間の空中文字。

33110030073311003004卒寮ビデオ1991より、新歓パンフと玄関の前に立てられた立て看。

以降に書きます「委員会」と「実行委員会」は異なるものですのでご注意ください。「委員会」は寮自治の行政部たる三委員会のうちのいずれかです。「実行委員会」は、名目こそ「学寮運営委員会が必要に応じて設置する特殊委員会」の一つですが、要はお祭りの幹事です。

入寮選考

自治寮ですから、入寮募集、申し込み手続きの処理、入寮選考などは、すべて両寮の委員会が行っていました。

入寮申込書はほぼ履歴書で、両親の収入なども書きましたから、今で言うかなりの個人情報です。

入寮まで

入寮選考を通った新入寮生は、入学手続きの日に寮も訪ね、入寮の手続きをしました。

まず委員会の面接があります。寮の説明を聞いた後に、部屋の鍵とパンフレット2部(委員会作成の寮自治に関するパンフと、新歓実行委員会作成の行事に関する新歓パンフ)をもらいます。最後に食堂に行って食券を買います。「今から予約しておくと入寮したその日から食べられるよ」と言われ、素直に予約します。

後に新歓実行委員会も面接をするようになり、行事の説明、新歓パンフの手渡し、および紹介パネルに貼る紹介写真の撮影はそこで行われるようになりました。

3310235800卒寮ビデオ1994より、新歓実行委員会の面接(左)と紹介写真の撮影(右)。

入寮直後

蒼玄寮(男子寮)の新入寮生は、4月1日から6日くらいに掛けて、三々五々入寮してきます。

当時は入寮に親が付き添う人は稀で、寮宛に布団袋とダンボール数個を送っておいてから手荷物で入寮しました。90年中頃になるにつれ、親の付き添いが増えてきました。

自己紹介

蒼玄寮新入寮生の歓迎コンパはブロックごとに、入寮生のあったその日から始まります。

今でいうアルコール・ハラスメントに当たるコンパですが、それはまた別稿にて書くことにして、ここでは各ブロックのコンパで行われる「(大声)自己紹介」についてのみ触れたいと思います。

文字通り大声で自己紹介をするもので、合いの手が入ります。声が小さいと合いの手が入らず、やり直しになります。

そのテンプレートはおおよそ以下です。

自己紹介、させて、いただきまーす(ヨーシ、と合いの手)

○○県立○○高等学校出身、埼玉大学、○○学部、○○学科、一年、(氏名)と申しまーす(ヨーシ)

部屋は○○号室、同室の先輩は、○○学部○年、(氏名)先輩、(同様に同部屋の先輩)でありまーす(ヨーシ)

今後とも、よろしく、おねがい、いたしまーす(ヨーシ)

4月の第一週の夜は、この声が寮周辺に響き渡っていました。90年代初頭には付近の住民から大学に苦情が行くようになりました。

ウソコン

悠元寮(女子寮)は一斉入寮です。入寮したその瞬間からウソコンが始まります。

ウソコンは、新入寮生に様々なウソを信じ込ませる、というものですが、なぜそのような名前なのかはわかりません。一説によると「嘘コンテスト」の略なのではないか、と。

歴史も長く、1982年にはじまり、寮祭などの行事がなくなっていく中2000年代まで継続していました。しかしその期間は、3晩4日から1晩2日と徐々に縮小していったようです。

ごちそうさまでしたの「寮食堂の皆様へ」より、80年代後半頃のウソコンの様子を引用します。

 「ああ食堂にめし出来て、腹ぐうぐうと・・・・・・炊夫の皆様ありがとう」この歌詞を寮歌のメロディにのせて歌い、「合唱、いただきます」で3日間、寮食を食べていました。私の入寮当時は、うそコンと称して新入寮生は3日間、悠元寮の先輩方に騙され、朝はラジオ体操と掃除をし、夜には頭に箸と鉛筆をまきつけてデーモン小暮のポスターを前にして反省会をさせられていました。1年生に扮した2年生はいるし、煙草を吸いながら新入寮生を脅すお姉さま方はいるは・・・というイベントです。3日目の夜に「うそだよーん」って聞いたときには、大泣きした記憶があります。寮食堂で私たちが寮食歌を歌っていたとき、食堂の炊夫さんたちはきっとすごーく笑っていたのですよね。今では、良い思い出です。

ウソコンの最後は「バラシコン」です。こちらはたぶん「ばらしコンパ」の略。

私も一回だけバラシコンを見ることができました。前日に「翌朝食堂でバラシコンが行われる」との情報が入ったので、ブロックで呑んだ後、明け方食堂に移動、呑みながら待機しました。

その時のバラシコンでは、新入寮生が踏み台昇降をしていて、その拍子を刻むテープが「これは、ウソでーす」と告げました。しかし新入寮生は何やらわからず、踏み台昇降を続けました。上級生が「ワー!」といって拍手しましたが、新入寮生はキョトンです。

それから、何がウソだったのか一つ一つ説明に入ったのですが、一番ショックそうだったのは「みなさんの中に実は2年生がいます」でしたね。

寄稿」の回想録に、2003年度のウソコンの詳しいレポートがあります。

このウソコン、悠元寮だけでなく、各地の寮にあったようです。

全寮連の交流会で「こんなウソをついた」と聞きましたし、また悠元寮のウソコンを紹介した翌年に「うちの寮でもやってみました」なんて話も聞きました。

新歓の企画

以上のような手荒い歓迎の後、4月の2週目に入るあたりから新歓の企画がスタートします。

以降特に断りのない場合は、新歓実行委員会による企画です。

入寮式

入学式の前の日の夜辺りに入寮式がありました。

まず三委員会の委員長、新歓実行委員長、学寮主事の先生や寮の職員さんよりお祝いの言葉があります。そしてブロックごとに新入寮生の紹介をします。また寮内サークルの紹介もありました。

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卒寮ビデオ1993より、入寮式の様子です。

はんこ取り競争

新入寮生と上級生との顔合わせ企画です。

新入寮生は、期間中に寮内の各居室を回り、その部屋の上級生からハンコをもらいます。しかしハンコを押すのに課題を課す上級生もいます。特に「必修ハンコ」と呼ばれる三委員長や新歓実行委員長のハンコを貰うには、課題のクリアが必要でした。

課題には、歌を歌う、面白い話をする、悠元寮生等へのメッセンジャーをする、フランス書院文庫を朗読する、などがありました。

多くはんこを集めた人が優勝です。後に書きます一年生交流会で表彰され、賞状と賞品をもらうことができました。

3311004721卒寮ビデオ1990より、はんことり競争の冊子。この中にハンコをもらいます。印影の部分は切り取って実行委員が処分していました。

ごちそうさまでした」の寄稿「便乗寄稿 『卒寮を迎えて』」より、はんこ取りについての部分を引用します。

 新歓で一番覚えているのは、当時は「はんこ取り競争」という企画があって、悠元寮が3日間ぐらい10時~17時の間開放されました(普段は男子禁制でした)。その日のその時間は悠元寮にずっといました。蒼玄寮とは大きく異なる点は2段ベットの所が畳で、横に布団を並べ、日中布団を押入れにしまい、コタツなどが置かれていた事。コタツに入ってクッキーを頂きながらお喋りしていました。今では嘘の様ですけどほんとです。とりあえず押印だけという事も有りましたが、趣旨は「いろいろ話して仲良くなった印に印鑑を押してもらう。」でした。270人ぐらいから貰って優勝したけど趣旨を達成したかどうかは疑問です。

また「寮史総合年表には、はんこ取り競争の始まりと終わりが記されています。

  • 1984年度:新歓はんことり競争が始まる
  • 1998年度:春 新歓で最後のはんことり競争(99年?)(表題のみ)

オリエンテーション

学寮オリエンテーションは三委員会の企画です。

新入寮生は学寮の抱える問題を委員会から説明を受け、また何班かに別れてディスカッションしたりしました。そのテーマは「寮自治編」の「寮が扱う問題」の章に示したような事柄でした。

学部別交流会

学部にごとに分かれての飲み会です。夜から始まり、朝まで続きます。

大きな飲み会の場所は、食堂、娯楽室2,3、娯楽室1に限られますので、2日に分けて学部が割り振られました。

伝統的に工学部は教育学部と同日になりました。

食堂の教育学部は、班ごとに別れて、教育問題についてのディスカッションから始めます。

娯楽室2,3の工学部は最初から飲み会です。適度に酔が回ったら大声自己紹介を一通りします。そして頃合いを見て教育学部に「乱入」します。

要は、工学部生のほとんどが蒼玄寮生で、悠元寮生とお近づきになりたいだけなのですが。

 

経済学部も独特の交流会だったのですが、これもアルハラに当たりますので別稿に分けたいと思います。平和な交流会は教養学部のみでした。

秋ヶ瀬ハイク

「夜間ハイク」と称して、夜中に近くの秋ヶ瀬公園に行きました。そしてヒントが書かれた地図を元にチェックポイントを回るオリエンテーリングをしました。

回っていると、迷彩服を来てライフルを持ったサバゲーの人が現れ、「いつまで続きますか?」と聞かれたりしました。

翌年以降夜間ハイクは無くなりましたが、92年には寮内サークル「バトルキッチン」主催の秋ヶ瀬バーベキューが行われました。

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卒寮ビデオ1992 新歓(2)より、秋ヶ瀬バーベキューの様子です。

地区別運動会

北海道東北、関東、中部、近畿中国四国(諸外国)、九州と、地区に別れて戦います。大学のグラウンドで行われました。

競技としては一般の運動会と同様、ラジオ体操から始まり、玉入れ、障害物競争、応援合戦、大縄跳び、ガチのリレー、ガチの騎馬戦などなど。

中でもフォークダンスのマイムマイムは異様な盛り上がりでした。真ん中に集まるところでみんな走って行って蹴りを入れるという…。

賞品は祝勝会のための部屋で、順位に従って、娯楽室2,3、娯楽室1、残りには食堂が割り当てられました。

その日の夜は地区別のコンパで、優勝した地区は旨い酒が呑めました。

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卒寮ビデオ1992 新歓(1)より、地区別運動会の様子です。

総合年表によると、宮城県独立騒ぎ、というものもあったようです。

  • 1987年度:東北・北海道チームで反乱騒ぎ

一年生交流会

4月の一連の新歓企画の最後が一年生交流会です。

場所は食堂、予算も新歓実行委員会から出します。一年生だけで好きに企画して好きにやってください。でもはんこ取り競争の表彰の時間だけとってね、というような感じの企画です。

7月に行われる納涼祭の実行委員予備軍育成のような意味もありました。

3311004831卒寮ビデオ1990より、一年生交流会の一コマ。「おともだちからはじめましょう」という、当時のTV番組からのキャッチフレーズが時代を感じさせます。

各サークルによる企画

実行委員会による企画は一段落ですが、寮内の各サークルやグループによる新歓企画は、5月6月になっても続きます。

以降の3つの企画は、夜始まって朝まで続きました。

Amライブ

音楽サークル「Am」による新歓ライブが食堂にて開かれていました。

Amについては既に「娯楽愉楽編」の「Am」の節に書きましたし、詳細は「寮内バンド大行進」に特集されています。

Amライブでは特にカレーが名物でした。ビールも売っていました。

またステージの電飾にも凝っていました。

3311000445FH020020卒寮ビデオ1993より新歓ライブの一コマ。ドラムの後ろに「Am Live」の電飾。また「さよなら蒼玄寮悠元寮ロビー、風呂、食堂より食堂カーテン裏の天井に残されたミラーボールとライト。

ディスコ

年によって新歓実行委員会企画だったり寮内サークル企画だったりで、新歓ディスコが食堂で開かれていました。

イベント・サークル「ネプチューン」については、これまた既に「娯楽愉楽編」の「ネプチューン」の節に書きました。その雰囲気は新聞「NEWS De Neptune」を御覧ください。

特徴的だったのは、THE BLUE HEARTSの「リンダリンダ」と爆風スランプの「東京ラテン系セニョリータ」が大盛り上がりだったこと。普通のディスコではありえません。

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卒寮ビデオ1992 新歓(2)より、新歓ディスコ中企画、だるまさんがころんだの様子です。

カクテルスナック・スコーピオ

カクテルスナック・スコーピオは、6月の週末2回ほど、食堂にて開かれました。

しまや

その主催は、寮内で「しまや」と呼ばれるグループです。私の世代では、四西、三西ブロックがこれにあたりました。

寮史総合年表より、スコーピオの起源としまやの起源です。

しまやの名前は、次次回くらいの「大忘年会」でまた登場します。

一年生の活躍

スコーピオでは一年生が活躍しました。

しまやの一年生はシェーカーを振りカクテルを作りました。

その練習は、先輩のOKが出るレベルになるまでカクテルを作り、それまでのOKのでなかったものは自分で飲み干さなければならない、というハードなものです。

また悠元寮の一年生は交代でウェイトレスをしました。思えば給仕のある出店はスコーピオのみでしたね。

スコーピオの思い出

当日はテーブルを5,6個の島に分けて配置し、その上のロウソクのみが照明でした。音楽はルパン三世であった印象が残っています。

カクテルの他に寮生向けのハードリカーもありました。「アブサン・ロック」もメニューにありました。

アブサンは毒性があるということで当時も販売されていなかったはずです。恐らくペルノをアブサンとしていたのでしょう。

スコーピオの終焉

先に紹介いたしました「便乗寄稿 『卒寮を迎えて』」より、スコーピオに関する部分を引用します。

6月にはスコーピオという3・4西ブロック主催のカクテルバーを開催しました。悠元寮一年生にウエイトレスを頼んで、第2・第4土曜日は完徹でシェーカー振ってました。これは私が寮に入って98年に無くなったような。とっても素敵な看板があったのですが、僕が駒場寮に出向していた時期にあった火事で焼失したと言う事で残念です。

おわりに

以上が新歓期の一連の行事です。

大学でも数々の新歓の企画がありましたから、新入寮生は普通の2倍の忙しさでしょうか?「夜から朝まで」の企画も寮ならではです。

新歓期が過ぎると、やっと落ち着いた生活になります。

次回は納涼祭、寮祭という2つのお祭りについて書こうと思います。