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1987年度悠元寮入寮
川畑

 田中さん、衛藤さん、寮食堂の炊夫の皆様、長い間お疲れ様でした。田中さんの定年退職はおめでたいことなのでしょうけど、寮食堂が終わりになってしまうことはとても残念でなりません。すでに浅野さんが退職され、その上、田中さんや衛藤さんたちがいなくなってしまうと、帰る家が無くなってしまうかのような心細い気持ちになります。ふらっと寮を訪れたとき、迎えてくれる人がもういなくなってしまうのは寂しいです。とはいえ、おめでたい卒寮式なので、今回は精一杯の気持ちを込めて送る言葉を書きたいと思います。

 私の寮生活のスタート地点を思い出すと、入寮初日の寮食堂の光景が浮かんできます。悠元寮生がほぼ全員食堂にずらーっと座って、寮食歌を歌っている光景です。

 「ああ食堂にめし出来て、腹ぐうぐうと・・・・・・炊夫の皆様ありがとう」この歌詞を寮歌のメロディにのせて歌い、「合唱、いただきます」で3日間、寮食を食べていました。私の入寮当時は、うそコンと称して新入寮生は3日間、悠元寮の先輩方に騙され、朝はラジオ体操と掃除をし、夜には頭に箸と鉛筆をまきつけてデーモン小暮のポスターを前にして反省会をさせられていました。1年生に扮した2年生はいるし、煙草を吸いながら新入寮生を脅すお姉さま方はいるは・・・というイベントです。3日目の夜に「うそだよーん」って聞いたときには、大泣きした記憶があります。寮食堂で私たちが寮食歌を歌っていたとき、食堂の炊夫さんたちはきっとすごーく笑っていたのですよね。今では、良い思い出です。

 その後の寮生活で思い出すのは、6時前後の衛藤さんの放送です。「えー・・・」で始まって、寮食が何食あまっているかが放送されると、箸と食券を持ってスタンバイしていた記憶があります。同期の女の子の間であの放送の真似がはやっていました。一番似ていたのが、確か康代ちゃん、本当にそっくりでした。今では、何だったか思い出せなくなってしまったのですが、確か当時とても楽しみにしていたメニューがあって、それだけは予約するようにしていました。多分、あの頃は和食が恋しかったので、和食の魚メニューだったと思います。寮食のメニューはいつも工夫が凝らされていて、値段も味もボリュームも、そして品数や栄養バランスなども大学生協とは比べ物にならない魅力がありました。本当にありがとうございました。

 食堂はいつも清潔で、気持ちよい空間でした。不思議だったのは、蒼玄寮生と悠元寮生が食堂で座る席が分かれていた事です。どうして?そして、いつからなのでしょう?いつも同じ人が同じ時間に同じ場所で寮食を食べていたのは何とも不思議でした。時々厨房から衛藤さんが寮生に話しかけていました。少しナマリのあるサバサバしたその話し方が私は大好きでした。明るくてお茶目で、衛藤さんはサザエさんに似てるって私は思ってました。田中さんは陽気なおじさんという感じで、コンパで酔っぱらったときと普段があまり変わらなくて面白かったです。炊夫の皆様はやさしいお母さんという感じでした。

 悠元寮生だからこその思い出は、大学への行き帰りに寮食堂脇を通るときの「いってらっしゃい」と「お帰り」の言葉です。いつも田中さん、衛藤さんが声をかけてくれました。大抵はその後に何か一言二言あたたかいお言葉付きでとても嬉しかったです。

 私は4年間在寮した中で、学運2期、悠元寮副委員長1期、委員長1期と寮委員会活動をやっていたせいか、寮食堂の方々と沢山の接点があり、とても良くして頂きました。好きでやっていたのですが、時々何だか寂しくてくじけそうな時があり、そんなときに田中さんや衛藤さんらの言葉に励まされたことが何度かありました。また、炊夫さんから近所のご家庭の家庭教師を紹介してもらった事もありました。食堂の皆様には本当によくして頂き、感謝の念に耐えません。

 私自身、今、高校で働いていますが、日々心穏やかに、いつも同じように人に優しく接することの難しさを感じています。でも、田中さん、衛藤さん、炊夫の皆様は寮生にいつも優しく笑顔で接してくださっていました。一人の社会人として、そのことにとても感激を覚えます。寮食堂は3月をもって閉鎖になっても、私たちの心の中の食堂はいつも開いていると思います。卒寮生として、その思い出を大切にし、これからもその思い出に恥じない自分であるように頑張っていきたいと思います。それから、お願いです。今後は同じ卒寮生として、時間が流れても変わらないお付き合いをしてくださいね。それでは、本当に長い間、お疲れ様でした。