世相・事件・流行歌

蒼玄寮、大久保地区に移転完了

大学のキャンパスが、北浦和キャンパス(今の北浦和公園)などから大久保地区に移転するのに伴い、それまで北浦和キャンパスにあった蒼玄寮も移転することになる。建物は、1969年5月に完成。その後、徐々に引越しが行なわれた。
キャンパスの移転に関しては、当初、三室や蓮田市が候補に上がったり、熊谷市や秩父市から用地の提供の申し出があったりした。一時は大宮が有力候補になっていたが、大学を市内に残したいという浦和市の意向もあって、現在の場所になったらしい。しかし、そんな思惑も、2001年の「さいたま市誕生」で、見事に水の泡になってしまった。

「入寮当時、寮の耐用年数は60年だと聞いた」(当時の寮生)

寮名の由来

男子寮が「蒼玄寮」、女子寮が「悠元寮」と名づけられたのは、埼玉大学が新制国立大学になった1949(昭和24)年10月のこと。名付け親は、新関良三初代学長(元浦和高等学校長)。氏は、その由来について、のちに次のように書いている。

ゲーテの『ファウスト』の第二部第三幕に “Immer boher muss ich steigen,Immer weiter muss ich schauen” という対句がある。いよいよ高く私は登らねばならぬ。ますます広く私は見ねばならぬ。この句を口にするのは、ファウストとへレナとの間に生まれたオイフォリオンである。ファウストは近世精神を代表し、ヘレナは古代精神の代表者である。ヨーロッパ近世とギリシャ古代とを綜合して、そこから或る第三的な新しいものが作られねばならぬ。そしてその新しいものが活躍する舞台は、古代に較べても、近世に較べても、もっと高くもっと広いものでなければならぬ、と云う意味がそこに含蓄されてをる。オイフォリオンは余りにも浪漫的であったがために高い頂きから失墜するげれども、新しいものが作られるのには、いくたびかの試練が必要である。浪漫的であること、試練に会うこと、これはむしろ青年の特権 (?) であろう。まして理念の上において、いよいよ高く昇り、ますます広く見ることに至っては、青年のより大きな特権であろう。青年を愛する私には、このゲーテの句が特に好きであり、私自身の座右の銘ともしている。蒼天高く、万有は玄として極まりなく拡がってをる。寮生諸君、ひろく高く、志を遊戎させたまえ。
(1952年6月発行「りべるて」創刊号より)

こんな高尚な意味があったとは……。要するに「寮の名前は、ゲーテの『ファウスト』に由来するんだぜ」と覚えておけば、だいだいの場面は乗り切れるであろう。もちろん、「ファウスト」を読んだことがなくても大丈夫である。

当時の食券代

朝55円、昼70円、夜80円。経常費が300円だったので、月に6450円あれば、三食食べて生きていけた計算になる。

寮祭でスコーピオ登場

蒼玄寮・悠元寮名物「スコーピオ」の名前が見られるもっとも古い資料は、70年の第19回寮祭パンフ(下記参照)。スナックと喫茶の二本立てだった。
メニューは、ウイスキー40円、バイオレットフィズ100円、カレーライス100円、みつまめ50円、みそ汁10円など。
どうやら、寮祭実行委員が中心となって運営していたようだ。この年は蒼玄寮の食堂だけで行なわれているが、翌年の寮祭では、まだ別の場所にあった悠元寮にまで出張。のちに受け継がれていく、必要以上とも思えるバイタリティの片鱗がうかがえる。
ちなみに、大宮スケートセンターでのスケート祭典も、同じ年にはすでに行なわれている。

第19回寮祭パンフ第19回寮祭パンフ

悠元寮生目撃事件

「ある朝、まだ別所沼に住んでいた悠元寮生が、どこかの部屋から出てきた。俺は義憤で体が震えた」(ある蒼玄寮生の証言)
うーん、それは確かに、義憤にかられる場面である。その後、悠元寮生に限らず、数多くの女性たちが蒼玄寮で朝を迎えたと推察されるが、悠元寮で朝を迎えた男性は、まだ確認されていない。
あ、例外がひとり。1980年代後半、ひとりの蒼玄寮生が大忘年会の翌朝、悠元寮の玄関前に布団をひいて、年末の凍てつく寒さにも負けず、朝までぐっすり眠ったと伝えられている。きっと、彼はその時、悠元寮の部屋で眠っている素敵な夢を見ていたに違いない。