寮での思い出や生活を全て書くと本になってしまいます。一日一日が貴重な体験ばかりでした。私が入学したのは昭和49年4月。当時の物価は国電(JR)の一区間は30円、バスは埼玉大学と北浦和間も30円、授業料は1ヶ月3,000円、県外生の奨学金は12,000円、寮費等500円、1ヶ月食事代約9,000円でした。
1年生として初めて入ったのが1階の玄関前の部屋でした。2年生の先輩と同級生との3人部屋です。何の手違いか寝具が届かず、部屋のこたつ布団と雑誌を枕にした生活が始まりました。
食堂と生活について入学当初とその後の感想です。
(1) 初めて食べた食堂でメニューは忘れましたが当時の印象として、麦飯の記憶だけは鮮明に残っています。使い込んだ赤いプラスチックのお椀に、真ん中に線が入った麦飯が盛られているのを見て「麦飯に見られている」と強く感じたことを覚えています。実家が食堂だったせいかもしれませんが、この鮮烈な印象は今でも忘れることが出来ません。しかし、数年して押し麦に代わり睨まれることが無くなりました。
(2) 食堂の入り口に食器棚がありました。先輩たちが湯飲みの中に箸を立てて置いてゆくので私も置くことにしましたが、先輩方の汚い湯飲みにはびっくりです。よくもまあこんな湯飲みを使っているなと驚きでしたが、しばらくすると私も参加していました。
(3) ある日サンマの煮物がでました。サンマの塩焼きしか食べたことのない私にとって埼玉人は何というものを食べるのだろうと驚きでした。そのころ感じたことですが、1日300円の食費であれだけ食べることが出来たのは衛藤さんのメニューと調理師さんの技があったからだと思い毎日感謝して食べるようになり、その気持ちの表し方として大きな声で「いただきます」「ごちそうさま」と言うことにしました。
(4) 4年生の時に蒼玄寮の風呂が故障し、一度だけ(2日間)悠元療の風呂に入りました。脱衣所で窓を開けて涼んでいると、向こう側の通りを走る車が何台も止まりこちらを見ていましたよ。
寮生活で一番の思いでは、人との関係でしょう。入学時はどの先輩を見ても今まで見たことのないタイプばかりで、顔を見るのが楽しみでした。しかし、空手部に入部した頃から生活は激変し、身近な先輩が急に多くなりました。先輩で一番記憶に残るのは毎夜十時の時報と同時に4階から「ふれーふれー さいだい ふれー」と聞こえてきます。寮には不思議な先輩がいるものだと友達と話し合っていましたが、その鈴木先輩は平成7年3月に他界されました。
寮のために仕事をされた、食堂、事務関係の皆様、いつも有り難うございます。食堂が閉鎖されるという話を聞いたのは2月の中旬でした。それからはあの頃のことをいろいろと思いだす毎日です。下旬に関東へ行った時は後輩の長谷川君、竹田君と遅くまで語り明かしました。
衛藤様、田中様、小山田様、西田様、河野様、本田様、 友光様 そして、田中様、長沼様、芳賀様 いつもお世話になり有り難うございました。
この文章を書きながら涙が出てきます。
毎日の食事ばかりでなく、皆様の食事時間におじゃまして一緒に食事をさせていただきました。特に卒業前に海外旅行へ行ったために財布が底をつき、最後の1ヶ月間は一緒の食事をさせていただきました。
埼玉県からは遠い石川県(島)、名古屋(堀田)に勤務しています。出張で東京へ行っても埼玉は通過点になってしまいました。しかし、新幹線で大学付近を通過する時はいつも見てしまいます。4年前の秋に食堂へおじゃました時も、田中さん、衛藤さんがいるので気楽に行くことができましたが、4月以降の寮には行く用事がありません。
参加できない私の同期と後輩たちで後日、関東地区で会を開きますが、このような機会がないと集まることができませんね。
寮に行けるように現役の皆さん2、3年に一度、みんなが気楽に集まることができる会を企画しませんか。お願いします。
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