このサイトに来られた同窓生以外の方が読みやすいよう、寮での暮らしを思い出しつつ、サイトのナビゲーションとして書こうと思います。

私の在寮期間は1989年から1994年でしたので、その頃の主に蒼玄寮のお話です。

蒼玄寮悠元寮とは

埼玉大学の学生寮として、男子寮の蒼玄寮、女子寮の悠元寮が2010年までありました。下大久保のキャンバスの南西にあり、大学の西門より徒歩1分もかからない立地です。

建物は4階建ての居室棟が3棟あり、南から悠元寮、蒼玄寮の南棟、北棟でした。そして悠元寮と南棟を結ぶ一階建ての建物があり、寮食堂、厨房、蒼玄寮の風呂、ボイラー室、事務室が入っていました。寮食堂と事務室は両寮共通の施設です。

蒼玄寮悠元寮全体図

当時の定員は、悠元寮が20室74人、蒼玄寮が102室336人です。

2018年現在は同じ建物がきれいに改装され学生宿舎となっていますが、その男子棟が悠元寮と南棟、女子棟が北棟にあたります。この棟割は、男女機会均等のためなのでしょう。

当時は男女機会不均等で、悠元寮は常時定員いっぱい、入寮の倍率も高かったのですが、蒼玄寮は常時余裕がありました。

実際に住んでいたのは、悠元寮74人に対し蒼玄寮240人くらいだったと思います。

蒼玄寮に余裕があったのは、石綿撤去工事の影響もありました。

石綿の撤去工事で一棟まるごと空にしなければならず、そのため2年くらい前から蒼玄寮は入寮制限をして人数を減らしていました。

とはいえ、工事終了後もさほど人数は増えなかったように記憶しています。

寮での暮らし

経費

寮の一ヶ月の家賃は、はっきりとは覚えていませんが、一ヶ月水光熱費込みで7,000円弱でした。内訳は寄宿料が700円程、経常費が6,000円程度でした。前者が自治会費で、後者が水光熱費です。

当時は学生アパートが安くても月4万くらい。さらに光熱費を考えると暮らし易さのほどが伺えます。(但し共同生活に耐えられれば。)

埼玉大学のサイトより「学生生活支援」のページを見ますと、2018年現在の学生宿舎の家賃は月22,900円(寄宿料19,100円、共益費3,800円。もちろん水光熱費は別)です。それでも大学に近く、個室でセキュリティも万全、机等完備なことを考えると十分お得なのですが。

この家賃の差は自治寮と大学管理寮との違いなのでしょう。
ちなみに1990年の物価指数は2018年の95%ほどで、それほどかわりはありません。

寮食堂では平日に昼食と夕食がありました。前者が240円、後者が270円でした。当時の学食のカレーが200円くらいであったことを考えると、栄養士の方がメニューを考えて下さっていた分コストパフォーマンスは最高です。

しかし利用者はそれほど多くはなく、先の両寮の在寮者数のうちの60人ほどでしたでしょうか。食事時間が限られていることが理由でした。また食数を確定するために4日前までに予約が必要でしたから、忘れて一回途切れると結構そのままだったりしました。

 

寮食堂の食券代については、寮史総合年表にその変遷が掲載されています。

  • 1970年:朝55円、昼70円、夜80円。経常費が300円だったので、月に6450円あれば、三食食べて生きていけた計算になる。
  • 1978年:経常費等 蒼玄寮3230円 悠元寮3310円/食券 蒼玄寮生 朝85円、昼135円、夜140円/悠元寮生 朝85円、昼125円、夜130円
  • 1980年:蒼玄寮生は、朝110円、昼180円、夜210円という「1日500円体制」。悠元寮生は、朝95円、昼160円、夜190円の「一日445円体制」。
  • 1987年:蒼玄寮 昼240円 夜270円。悠元寮 昼220円 夜250円。寄宿料+経常費6100円ぐらい。

ブロック

寮の共同生活はブロックを基本に行われていました。ブロックとは、ほぼ棟の階ごとの、住人の集まりです。五人組のようなものでしょうか。(20人くらいだったと思いますが。)

南棟は各階がブロックですが、北棟は床面積が広いので、各階の東と西が別ブロックでした。ということで蒼玄寮には、南一(なんいち)、南二、南三、南四、北一東、北一西、北二東、北二西、北三東、北三西、北四東、北四西の12のブロックがありました。「北」はほぼ省略されており、一東(いちひがし)、一西(いちにし)…のように呼ばれていました。

このブロックごとに、ブロック討論という寮自治の会議が開催され、また風呂掃除や電話番などの当番も割り当てられていました。

そして各ブロックで、日々のコンパや、行事の際の出店や企画がなされていました。ブロックの結びつきは強く、そのブロック伝統の企画や、ノリのような特徴がありました。

以上のように、ブロックは自治の、そして生活の基本構成単位でした。

寮生の一日

寮生の一日は、寮食堂の栄養士、衛藤さんのお昼の放送から始まります。

「え~食堂より、お知らせします。本日の昼食が、あと〇〇食、〇〇食残っています。」

前述の通り寮食堂は予約制ですが、予定が合わない人もいてキャンセルが発生します。時間が過ぎれば、キャンセル待ちで食べられますが、キャンセル待ちの人が少なければこのように放送での呼びかけになります。

衛藤さんの放送で目覚めた寮生は、食券と箸を持ってbreakfastにキャンセルの昼食を食べるのもよし、自前で何か食べるのもよし。

そして起きれば近くの部屋には誰かしらいますから、テレビを見たり、漫画を読んだり、ファミコンをしたり、メンツがそろえば卓を囲んだりで、夕方になります。

夕方になって、ブロックでコンパが企画されていればその準備をします。スーパーに買い出しに行って食材とお酒を調達、そして調理をします。

夜になってコンパの開始です。たいていは誰かの誕生日コンパです。他のブロックからもお客さんが来ますし、他のブロックのコンパへもコップを持って出かけたりもします。

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卒寮ビデオ」、1991より、居室でのコンパの様子。

いつの間にやら夜が明け、コンパはお開きになります。いったん寝て片づけはお昼です。

 

もちろん大学にも行きましたとも、私も何とか卒業できましたから。

中には院に進学する優秀な寮生もおりましたし。

各棟の施設と風呂

このような寮生活の舞台であった施設をご紹介いたします。

居室や棟の施設の様子は「さよなら蒼玄寮悠元寮」の悠元寮南棟渡り廊下、北棟より伺えます。

これらの写真は、改装のため学生さんが引っ越した後の撮影ですので、実際に住んでいた時はもう少しきれいでした。

居室

居室の大部分が4人部屋です。そして各棟各階の隅に2人部屋がありました。蒼玄寮では4人部屋に3人ほどで住んでいました。

蒼玄寮の4人部屋は12畳ほど大きさで、部屋の玄関を入って両脇に畳敷きの2段ベッド、中央はこたつを置いた居間スペース、その奥に机と本棚がある、個人の勉強スペースがありました。

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悠元寮は2段ベッドではなく両脇に各2畳の畳敷きがあり、そこが寝床兼居間でした。朝晩、押入れに布団の出し入れをしていました。

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各棟の施設

各棟各階には、トイレ、洗面所と、調理スペースである補食室がありました。(南棟の補食室は1階3階のみ)補食室にはシンクと2口のコンロ、冷蔵庫があり、普段の食事のみならず、コンパの準備に使われていました。

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写真はきれいな悠元寮の補食室と洗面所です。

そして北棟と南棟の3階には図書自習室がありました。図書自習室は、勉強部屋というよりその階の住人がサロン的に使っていたようです。その後1999年に北棟の図書自習室で火事があった後は、改装されて完全なる自習スペースになったようです。

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悠元寮にも自習室とかミシン室とかあったかと思いますが、あまり入ったことがないので記憶にありません。(悠元寮は男子禁制です。)

食堂

食堂は両寮共通の施設です。

月曜から土曜の昼食と夕食が提供されていましたが、出食数が少ないということで91年に土曜日の寮食はなくなりました。

時間は昼が確か11:30-12:30、夕が17:00-18:00です。

食券は、平日昼間なら事務室、休日や夜の場合は委員会の生活部の部屋で買うことできました。一食分の券は、真ん中にミシン目が入った半券2つ(予約券と食事券)になっており、割り印が押されていました。

予約の時は、日ごとのタッパーがカレンダーのように並べられた棚が食堂の隅にありますので、そこに行きます。予約券と食事券に日付と部屋番号名前を書いてから、予約券だけをその日付のタッパーに入れます。

食べるときは、厨房との間のカウンターにある針に食事券を刺します。この時、「いただきまーす」と大きな声でいうのが慣例になっていました。

食事をする場所は好きなところに座ってよいのですが、悠元寮生が窓際の一列、蒼玄寮生はそれ以外に座ることも慣例でした。

食べ終わったら厨房にある食洗シンクに食器を入れるのですが、このときも大きな声で「ごちそうさまでしたー」というのが暗黙の掟でした。

ごちそうさまでした、「お陰で今でも元気っす!」より引用します。

最初の出来事は、初めての食事の後。

元気良く挨拶を、と教えられて「ごっそうさ~ん!」。

應援團仕込みの大声で言ったところ諸先輩方から「何様だ」と大目玉。

以後、「ご馳走様でした!」。

現在も会社の生協で、厨房の方に感謝を込めて言って居ります。

夕食の時間は早いのですが、それを過ぎても食べられる「棚食」という仕組みがありました。

棚食にする場合はその日の夕食の前までに、食事券を紙に貼って部屋番号と名前を書き、それを厨房と食堂の間にある棚の一つに入れておきます。

すると厨房の方がそこに一食分入れておいて下さるので、それを都合の良い時間に食べることができます。

とはいえ、衛星の都合上夜9時までと決まっており、それを過ぎたら処分される前に誰でも(タダで)食べてよいことになっていました。

委員会の生活部は4稼働日後の出食数を確定するために、夜に該当日のタッパーの食券を数えます。このとき棚食が余っていると、処分するのは忍びないので無理して2食分食べる生活部員もおりました。(生活部員は大抵予約して、時間内に食べています。)

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さよなら蒼玄寮悠元寮」、蒼玄ロビー、風呂、食堂より、机も椅子もなくなった食堂。「厨房の皆様の卒寮式」、送別会:卒寮式・送別会写真展より、厨房のカウンター。その右側に棚食用棚が見えます。

風呂

蒼玄寮の風呂は銭湯なみの大きさです。

4日に1日は休みでしたが、夏なら水のシャワーを浴びていました。或は車で銭湯に行ったり、大学の体育館が近くなのでそのシャワー室を利用していたりもしました。

湯舟は銭湯のようにお湯を循環するわけではないので、夕方一番風呂は熱くて入れず、深夜は冷めてしまいます。そして入浴剤を入れたわけでもないのになぜか緑色に。

掃除は週に一度、ブロックごと持ち回りで行っていました。参加者にはバイト代として、ジュース代が支給されていました。最初は紙コップジュースの自販機があって50円だったと思います。後に紙パックジュースの自販機になったので、それに合わせてバイト代が値上げされました。60円だったかな。

石綿撤去工事を行っていた時期は、悠元寮生が蒼玄寮の風呂に入っていた時期もありました。もちろん時間交代制です。

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さよなら蒼玄寮悠元寮」、ロビー、風呂、食堂より、蒼玄寮の風呂。

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同じく悠元寮より、悠元寮の風呂です。

おわりに

以上、日常生活編でした。

日常生活についてのコンテンツはサイトに少なく、あまりナビゲーションにはなりませんでしたが、以降の記事の基礎になりますのでご了承ください。

次回は寮自治の話からはじまります。