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’81~’86 元320号室 千葉

 寮食堂は、食堂というばかりではなく、各種寮内行事のメイン会場でもありました。代議員大会・寮生大会という「政事(まつりごと)」の場としてはもちろん、新歓、納涼祭や寮祭、卒寮式などの「祭事(まつりごと)」の場としても活躍してきました。

 また、一部の寮生グループや寮生サークルがしきり行う、独自のイベント(スコーピオ・大忘年会・コンサート・ダンパなど)が、寮食堂を主な活躍の場としてきたことも、皆さんはよくご存じのことでしょう。

 これら「定例行事」の他にも、寮食堂はいくつかの大きな「臨時イベント」をその懐で開催してきました。今回はこの「臨時イベント」について振り返りながら、寮食堂の果たした大きな役割について考えてみたいと思います。

 私は大忘年会やスコーピオを主催する、当時は通称「しまや(これとてグループが主催するむつめ祭でのスナックの名前なのですが)」と呼ばれるグループに属し、6年間の在寮中に、定例以外の大きなイベントを、主催者側として5件ほど経験してきました。それらは、次の3 種類に分類できます。

(1) 職員さんの送別会3件(秦さん・長沼さんと田中Sさん・芳賀さんと高橋さんご夫妻)
(2) 大森さん・横塚さんの結婚披露宴二次会
(3)S.W.G.P.(寮内プロレス興業;Sougen Wrestling Grand Prix)

 では、これらを順に振り返っていきましょう。

(1) 食堂職員さんの送別会の「背景」

 寮食堂で行われたさまざまな送別会の原点は、’83年3月に行われた厨房職員・秦さんの定年による送別会です。大学職員の合理化という流れの中で、寮食堂の職員(炊夫)さんも例外ではなく、削減されようとしていました。もちろん、これに対する反対運動もありました(このあたりの話は「定員削減問題」として’79柵木さんや’82田村君がお詳しいでしょう)が、実際に辞めていかれる方に対して、お世話になった我々が何らかの気持ちを表現しなければならないことにも気がつきました。

 準備期間はそれほどなく、また春休み中のため寮生も少ない時期でした。この時は’79年入寮の槻山さんに発起人になっていただいたと思います。どんなメンバーで実行委員会を立ち上げたかは記憶にありませんが、私と、同期の福重君が主要メンバーだったことは間違いありません。私達のグループは昔から、大忘年会やスコーピオに厨房の方々をお招きしており、食堂との交流が深かったので、とにかく「俺たちがやらなきゃ、誰がやるんだ?」「生活部まかせでいいのか?」という気持ちでした。福重君はすでにこのとき、大忘年会やスコーピオを通じて、実行委員会の招集や仕事の割り振り、OBへの招待状発送などの「仕切り」ノノウハウを身に付けており、実質上のリーダーでした。私は得意分野が「施工」の方だったので、とりあえず「秦さん去る!」という見出しで似顔絵入りのチラシを作り、寮内に手撒きしたことを憶えています。まずは出席者を確保することが重要だと思っていましたから。

 「大感謝状」という発想も、実は大忘年の中での「表彰(主に参加してくださった食堂職員さんへの)」が母体となっています。文面はかならず、「寮食堂調理師〇〇殿 貴殿は〇〇年の永きに渡り、寮食堂調理師として寮生の健康に大きく貢献してくださいました。」と始まり、「そればかりか…」として、寮生の接点やその方の特筆すべき 側面を、面白おかしく(?)文面に盛り込むのがパターンでした。この大感謝状が、後のすべての送別会のシメとなったわけです。

 この秦さんを皮切りに、あと2年続けて寮職員さんの送別会が年度末に催されました。大感謝状以外にも、送別の記念としてプレゼントが送られています。「新宿コマ劇場・北島三郎ショーのチケット」(悠元寮清掃・高橋さん’85)などという、ご本人の趣味を事前調査して決められた実用的なものもありましたが、手作りの、まさに「記念品」もありました。田中Sさんの送別会(’84年)での記念品は、ご本人の似顔絵と寮生の寄せ書きの入ったかっぽう着でした。この企画は、9年後の’93年、「田中Hさん勤続30周年」でも記念品として再登場することになります。このときには寄せ書きを、全国のOBOGからも葉書に書いて送っていただき、プリントゴッコでかっぽう着に印刷しました。

 どの会でも、見かけの派手さや立派さよりも、送られる方や参加した方が本当に喜び、楽しめることを心がけました。送別会で最も大事なのは、「私たちは貴方に育てられた子供です」「たいへんお世話になりました」という気持ちが、ストレートに伝わることだと考えていたように思います。

(2) 大森さん・横塚さんの結婚披露宴二次会の「仕掛け」

 私が4年生の’84に行われたと記憶しています。各寮の委員会の長として活躍されたお二人の、たっての希望で実現した企画です。この時も、新婦の幸子さんと同期である槻山さんが実行委員長となり、そのご指名で私と福重君が、当日の企画と会場設営・運営を任されました。寮とはまったく無縁である両家のご親族や友人の方々のご来場になるというので、非常に身構えた記憶があります。

 開宴直前の食堂で、槻山さんが模造紙で貼り出した「式次第」を指差し、「この『御披良喜』ってのを書きたかったんだよな~」と何度も言っていたのが印象に残っています。

 テーブルのお料理は、もちろん食堂で作ってもらったはずです。厨房で田中Sさんが調理にあたっている写真が大森さん夫婦のお手元に残っているそうですが、残念ながらメニューまでは判りません。

 さていよいよ開宴。乾杯や祝辞をいただいたのち、現役寮生による寸劇「銭形修二」の上演で、軽く笑いを取ります。そののち、メインイベントのキャンドルサービス。

 大森さんの特別注文は「二人で力を合わせて起こした火(原始時代さながら、木を擦り合わせて木屑に着けた火)を用いてのキャンドルサービス」でした。木屑のいぶり具合に合わせて、BGMの「スペースオデッセイ」が徐々に盛り上がっていきます。着火の確認とともに曲は最高潮。その時、ベランダ側・新郎新婦のバックの紅白幕が突然あがり、夜の闇の中、空中に吊られた「結婚おめでとう」の切り文字(1文字90cm角の発泡スチロール製)が、下からの花火(ドラゴン)7個の火花の中に浮かび上がる、という派手な仕掛けでした。花火の着火が1個だけ遅れたのはご愛嬌でしたが、会場は拍手喝采、お二人のキャンドルサービスに花を添えました。

 そして最後は、大感謝状サイズの「結婚認定証」の授与でシメ。後にも先にも、寮職員以外でこの「特大表彰」を受けたのは、大森さんご夫婦だけなはずです。 多くの寮生が力を合わせて、とどこおりなく、しかも独創的で寮らしい二次会が実現できました。途中のクライマックスの各所でビデオカメラのバッテリーが切れ、「いい場面」がのきなみ録画できていなかった、というのが20年前らしい後日談です。

 そういえば、秦さん送別会の頃までは、寮の中も「委員会・学運系統(当時は自治会・民青の影響力が強かった)」「主に南棟バイク好き系統」「主に北棟スコーピオ・大忘年会系統」みたいにまだ分派色が残っていましたが、学生運動の鎮火から時間が経ち、セクト色が薄れたことと、全寮的な「送別会」というイベントを繰り返すうちに、寮生にある種の連帯感が強まったことで、’85年頃までにはかなり分派色は薄れていったように思います。

(3) S.W.G.P.(寮内プロレス興業;Sougen Wrestling Grand Prix)の「勢い」

 上記の送別会などと違い、寮食や職員さんとはほとんど関係ありません。どちらかというと、サークルの発表会に会場として食堂をお借りした、というのに似ています。

 この企画は5年生(’85)の春に思いつき、寮祭実行委員会が招集される頃にはすでに企画書が完成していました。初回の実行委員会が開かれた娯楽室1に、無関係な私が企画書を持って乗り込み、「こういう企画があるから寮祭を1日延長してくれ」とねじこんで実現した「ワガママ企画」でした。

 でも企画書を書いている段階で、「絶対成功する」という確信がありました。学年・ブロック・派閥などを越えて、当時その存在が目立った寮生が、レスラーだけでも17人も集まり個性をぶつけ合うのですから、面白くないわけがありません。またそれぞれの選手に与えられたキャラクターの愉快さにも、絶対の自信がありました。案の定、のめりこんだ’83古舘君や’85相澤君をはじめ、多くの寮生がリングの内外で「命燃やす」結果になりました。みんな、自分を表現したかったし、みんな、それを見たかったんだよね。

 選手の他にも、レフェリー・セコンド・リングアナ・実況・解説・花束嬢・照明・音響・撮影など、スタッフの総勢が約30名。「発表型」のイベントとしては、特大でした。手作りの木製コーナーポストとホース、体操部から借りたマットで6m角のリングを組み、100余の座席を備えた小さな会場は当日、(超)満員御礼となりました。もちろん、田中Hさんもお招きして、いっぱいヤジとばしてもらいました。

 さてこれらの臨時イベントは、常に「実施する側の楽しさ」ではなく「実施された側の満足度」を重視して行われてきました。そのため実施までに、幾多の試行錯誤や論議という「試練」を通過しています。このプロセスの上にはじめて「共感する喜び」が付随します。

 つまり、寮食堂で行われた臨時イベントは「要請されたとき、相手の立場に立って考え、自分の問題としてものごとを吟味して進める」ように我々を鍛え、さらにそれらを通して「一体感を持つ喜び」を教えてくれたと言えます。「いざというとき、本気になって連帯できる」これこそが、あの頃の我々の寮にできた「寮風」だったのではないでしょうか?

 そしてその「寮風」の維持・発展に欠かせなかったのが、寮食堂という「生きたシステム」だったのです。日々、頭を並べて仲間と同じ飯を食い、歳も立場も違う職員さんと身近に接することができる環境や、話しかけてくれる職員さんがいてこそ、このような「寮風」を持つことができるのです。生協の食堂で、こんなことができますか?

 寮食堂という「生きたシステム」が、元寮食堂という「ただのホール」になってしまう今後、おそらく強い必然性や強制力がないかぎり、「自分以外の誰かのために」そこに人を集めて何かを行い、共感を得ようとすることはないでしょう。まして、何か「いざ」ということがあったとき「俺たちがやらなきゃ誰がやるんだ?」という雰囲気は、とても生まれないと思います。

 寮食堂がなくなるということは、単に我々OBOGにとって「絆を確認する場所が無くなる寂しい事態」であるだけでなく、大学の中から「いざというときに本気で連帯できる人間」を形成する「中枢機能のひとつを 失うこと」でもあるわけです。その損失は計り知れません。

 私の在寮当時に学生部長をされていた小川瑞穂先生のお計らいで、いま私の手元に、寮誌「りべるて」の古い時代のコピーがあります。その中の’52年の創刊号に、「蒼玄寮」「悠元寮」の名付け親である当時の学長、新関良三氏の寄稿があります。新関学長も旧制一高で寮生活をされた方であり、文の冒頭には「我々の寮は学園の学風と伝統の培養地であってほしい」とあります。嬉しく、そして在寮時の自分を振り返ると恥ずかしくもなる一文です。しかし私達は、この期待にほんの一部ではありますが、応えられたとは言えないでしょうか?

 事象を歴史的にとらえるとき、その表面は変質したように見えても、それは古いものが通り過ぎたのではなく、層状に積み重なっているのであり、かならず古いもののカケラが新しいものを支えています。しかるに今回のような「突然の」寮食堂の打ち切りという大学側の措置は、歴史的配慮にも欠ける「愚行」というべきかもしれません。

 国立大学が、今まで経験したことのない統合・合理化の無秩序な波の中に放り出されたことは漏れ聞いています。しかし私は(1)OBOGの拠り所の「無断」撤去 (2)学内の人間形成・学風形成の機能の損失 (3)歴史の断絶を招く手法 という3つの観点において今回の措置を批判し、この紙面をお借りして「遺憾の意」を表明しておきます(あ、柄にもなく、昔の「自治会風」ですか?)。

 学生寮の建て替えも、ごく近い将来行われることでしょう。我々の先人は、古(いにしえ)の寮への想いを、しばしば「寮歌碑」などという形で土地の上に刻みました。

 そして2003年の現在、我々がするべきことは、そのような貴重な「場」が存在したこと、そしてその中身(さまざまな事実や想い)を、後世の人が検証できる形で伝えることではないでしょうか?私はこれを「寮史」という形で残したいと思っています。

 「寮」や「寮食堂」が私の、そして皆さんの心の中に、永遠に残りますように。