世相・事件・流行歌

悠元寮門限事情

 当時の悠元寮の門限は午後10時。しかし、蒼玄寮との通路は12時まで開いていたので、夜遊びから帰ってきたお転婆な悠元寮生は、そちらを経由して帰るのが常だった。
 1980年代前半になると、悠元寮生全員が、蒼玄寮との通路の鍵を持つようになり、実質的に門限が廃止になる。

食器を持ち帰らないで!

「りべるて」1975年6月号には、衛藤さん、田中さんを含む7人の職員さんがズラリ顔をそろえた大豪華座談会が掲載されている。題して「調理士さん・栄養士さんは語る」。そこから、当時の寮食堂のみなさんが何に悩んでいたかが伺える発言を抜粋・要約してみたい。

「あんまりビンのカケラを窓からばんばん投げたりしないのと、どんぶりや茶碗を部屋に持っていったら、持って来てもらいたいね」
「お醤油のびん、みんな部屋に持ってちゃうんだもんな。20いくつ置いていたのに。だから今は一升瓶」

「食器って、今、ひとつ300円ぐらいするのよ。女子寮合併の時、270そろえたのに、今、170ぐらいしかない。新入生入ってきたら足りなくなっちゃうよ」

「昔は、生活部や監査で、部屋を全部回って抜き打ち検査をしたもんだ。そこまでやんなきゃダメだよ」

「土足で食堂に来るのもいるなあ。もっと自分たちの寮をきれいに使おうと努力しないと。トイレも汚いよな」

「今、3食で合計280円。どんどん物価が上がるからすごく苦しいけど、なるべく値上げはしたくないのよね」

「我々は母親と同じだな。飯食わせてんだから。優秀な奴らを世の中に出さなきゃいけないから、責任重大だよな」

 寮生が至らないばっかりに、余計なご苦労までかけまくってきたようだ。どうもすいませんでした……。

大忘年会のルーツ?

 厨房職員と寮生との飲み会をする時に、この頃から、紅白幕を張るようになった。これが大忘年会のルーツという説もある。

負担区分闘争

 前年74年度の水光熱費の負担区分は、寮生1,538千円(男子月309円、女子370円)、大学負担14,373千円と、大学側が9割負担であった。これを寮生側に負担させ、なんとか財政を軽くしたい学生部との間で闘争が勃発。何度も交渉が行われた。

 当初は「負担区分は軽減の方向で努力をする」という以前の確約を武器とした寮生側が有利と思われたが大学側も粘り、9月には寮生負担を月額735円とするとの暫定合意に至った。

 そして天王山の2月4日、大学側(教養部を除く学生部協議会委員)との交渉が深夜から開催され、翌5日の正午にまで至った。この戦いでは、蒼玄寮の増アンペア工事棚上げをちらつかせた大学側が最後に「負担区分は値上げの姿勢で臨む」と表明し、大学側の優勢勝ちかと思われた。

 しかしその後、学生部長は心労の末辞任、学寮主事も補佐が不十分であったとの責任を感じて辞任に至るという、大学側にも大きな傷を残す結果となった。

(この項は「埼玉大学五十年史」の231-234ページをもとにしましたが、もとの文章の意味が汲み取れておらず事実とは異なる記述があるかもしれません。)