年間行事の3回目は大忘年会についてです。

12月の第2土曜日の夜に開催されました。蒼玄寮生(男子寮生)のみの企画ですが、悠元寮生(女子寮生)も巻き込まれました。

この稿では、アルコール・ハラスメントや酒宴の狂乱の様子の描写があります。そのような事項に嫌悪を感じられる方は、お読みにならないようお願いいたします。

尚、本稿における「乾杯」は、文字通りに杯を乾すことを示します。

準備

大忘年会は「新歓編」の「カクテルスナック・スコーピオ」の章で書きました、「しまや」という団体が企画していました。

以降「大忘年会実行委員会」と書きますが、イコール「しまや」です。これまでの、選挙で役員が選任された実行委員会とは異なります。

私はしまやではありませんので、その準備の大変さを知るよしもありません。外から見聞きして知るところの準備を列挙します。

招待状

寮の外に大忘年会の招待状を出していました。学寮主事の先生はもちろん、県知事から、(さいたま市になる前の)浦和市長から北浦和駅の交番のお巡りさんから。

結構な数の招待状を出していたと思うのですが、そうそう来てくださいません。そんな中、当時の浦和市長・中川さんはお越しくださいました。

役職名の書き出しと張り出し

大忘年会に参加しそうな寮生の名前を役職名付きで書き出し、食堂に張り出しました。大会会長は調理師の田中さん、顧問が8年生、参与が7年生…という感じだったでしょうか。

3年生には、悠元寮突撃隊長、悠元寮防衛隊長、一年生撲滅隊長、という実行的な役職名が付きました。

1,2年生にはユニークな役職名が付きました。伝統的な役職名から、その人のキャラクターに由来する新しい役職名までありました。憶えているところでは、みこすり犯人、西川口のキップ切、など…。

ごちそうさまでした」の寄稿「幸せな選択」より、役職名についての記述です。

他にも大忘年会の時期に張り出される名前!を見る度にため息が・・・後輩に「間仲さんだけ長いのは何でですか?」と聞かれる度に辛かったです。

チケット売り

12月になると、学生服を着、たすき掛けした大忘年会実行委員がチケット売りに居室を回りました。

大忘年会実行委員は、日本酒が入ったポリバケツ、ひしゃく、枡を携えています。チケットを買うと、買った人は枡を渡され、ひしゃくで波々と酒を満たしてもらえます。そして実行委員と乾杯。

チケットが売れる毎にこうなので、チケット売りの実行委員はその期間中ベロベロになりました。

大忘年会当日

大忘年会は夕方から食堂で行われました。

会場

食堂の正面には畳が2枚重ねられた来賓、大会会長、OBの席、左右には畳一枚の上級生の席です。入り口側はござが敷かれた一年生の席です。

入場すると、枡と折詰が手渡され、それぞれの席に着きます。

中央には浦和の地酒「旭政宗」の樽と、サボテンの鉢植が机の上に置かれ、竹に張られたしめ縄で聖別されていました。サボテンの鉢植は普段から食堂にあり田中さんが育てていらっしゃったものですが、男根崇拝を表したのでしょう。

 

大忘年会には式次第があり、それに則って行われていました。しかしそれらの記憶はなく、最初のほうに祝詞があったことは覚えています。

祝詞

神主の恰好の実行委員が御幣を持って、酒樽とサボテンに祝詞を奉ります。

「大晦日(おおつもごり)に種々の罪災いを祓い給え清め給え…」といったような出だしで始まります。そのあと、その年の罪・災いが並べられます。トイレの便器を壊す罪、娯楽室で火事が起こる災い、授業時間なのに多くの寮生が消火に集まる罪…などなど。

乾杯

学生服の実行委員がポリバケツとひしゃくをもって、参加者の升を旭政宗で満たします。

全員の升が満たされたら、大会会長の音頭で乾杯します。

座席には塩が盛られた皿も置かれており、升の隅に塩を盛ってそれを舐めながら呑んでいました。折詰もあるのですが。

酒宴

式次第は進みながらも、実行委員がポリバケツを持って回ってきます。一年生は必ず枡を空けます。そのうち「一年生撲滅隊長」も役職を果たそうとポリバケツを持って回ってきます。

新歓編」の「自己紹介」の節に書きました、大声の自己紹介を下級生から始めるのですが、そこまで行ったら一年生のお役目は終了です。

確か一年生は参加前に、手に部屋番号とベッドの場所(右下など)をマジックで書いておくように、との通達がありました。潰れた一年生は、実行委員や上級生によって各部屋のベッドに運ばれていきます。

その前に、呑んだ酒や折詰を戻すのですが、それ専用のポリバケツもありました。ゲロバケツと呼ばれていました。

そのうち、ゲロバケツと酒の入ったポリバケツを間違える輩がでたり、ゲロバケツに躓いてひっくり返す輩がでたりもしました。いずれも実行委員が対処するのですが…。

初めの一本出し

自己紹介が二年生の番になると、そのトップバッターは大忘年会実行委員です。自己紹介の後「初めの一本出し、行きまーす」といって、学生服を脱ぎ捨て全裸になり走りまわります。

その後の二年生も二本目以降を出したりしました。或は出さずに済んだかもしれません。自己紹介が三年生以降まで続いたかは記憶にありません。

ごさが踊り

宴もたけなわ、の状態になると「ごさが踊り」が始まります。

「ごさが」とは、インドネシアの部族に伝わるようなペニスケースのことで、これを付けて踊ります。踊りと言っても食堂を駆け回るような感じでした。原始的なトランス状態と言いましょうか…。

ごさが踊りが目当ての大忘年会参加者は、事前にごさがを作成していたのでしょう。別にごさががなくっても全裸で踊ればOKです。局部に墨が塗られたりもします。

私の頃の大忘年会は「撮影禁止」と言われていました(撮影したところで現像してもらえなかったでしょう)が、「同窓会サイト発足記念式典」の蒼玄寮・悠元寮グラフティにそれ以前の大忘年会の写真を一枚だけ掲載しています。といってもパスワードを入力した場合のみの表示で、一般にはとても公開できません。

悠元寮突撃

ごさが踊りと前後して、男子禁制の悠元寮に突撃が始まります。年によっては問題も生じたこの行為ですが、それについてはまた後程記します。

「悠元寮突撃隊長」の役職と、「悠元寮防衛隊長」の役職の人は、その役を果たします。多分。

悠元寮の監査委員会も、食堂の渡り廊下の入り口にコタツを置いて座っており、問題が生じたときに備えます。

DSC_0421さよなら蒼玄寮悠元寮悠元寮より、悠元寮の内側から見た渡り廊下入り口。ここに机でバリケードを築き、悠元寮監査委員会が詰めていました。

90年代前半では、89年の反省からか、悠元寮のベランダを4階までよじ登るとか、非常階段を上がって屋上に登って騒ぐとか、問題にならない程度の騒ぎでした。ベランダと屋上は、悠元寮の「外」であるからセーフであるとの認識でした。

 

ごさが踊りの食堂と、悠元寮周辺以外でも、酔っ払いが走り回って夜は更けていきます。下級生でなくとも、お互い酒を注ぎあって勝手に潰れていきます。

大忘年会翌日

大忘年会の翌日、実行委員会は食堂の片づけと掃除をします。

また厨房では田中さんが大鍋でうどんを作ってくださいました。厨房にあつまった人は、そのうどんを頂きながらビールを飲みました。

ある年は、その場でなぜかレオタードが出てきて、その場の皆で回し着したり…。

大忘年会の記事

以上のような大忘年会に関する記事をご紹介いたします。

まずは「寮史」の総合年表から、大忘年会の前史も含めて。

私の在寮期には「悠元寮に入ると坊主にしなければならない」という伝説がありましたが、その伝説のもとになった事件の記事が「寄稿」の回顧録にあります。

ごちそうさまでした」の寮生、OB・OGからの寄稿にも、大忘年会に関して記されている寄稿があります。

大忘年会問題

「悠元寮突撃」の項に書きましたように、90年代前半は割と問題なく(あくまでも蒼玄寮生の目線ですが)悠元寮突撃がなされていました。

しかし全くそうであったかというとそうでもなく、悠元寮に入った輩もおりました。その彼は「坊主コンパ」なるものを開き、自主的に坊主にました。

とにかく割と平和な悠元寮突撃が数年続いたのは、89年に起こった問題のおかげです。

89年の大忘年会問題

当時私は一年生で早々に潰れていましたから、何があったのかはわかりません。

どうやら悠元寮のガラスが割られたらしい、というのを伝え聞き、そのうちに悠元寮の委員長・副委員長連名の抗議文が食堂の入り口に張り出されました。

それから「合同寮生大会」なるものが開かれました。両寮共通の問題を扱う代議員大会については「寮自治編」の「寮自治の体制」に書きましたが、それとは異なるこんな決議機関はこれ以外開催されたことがありません。そもそもそんな人数は食堂に入れません。

兎に角その「合同寮生大会」で「大忘年会でガラスが割られて悠元寮生が怖い思いをした問題」が話し合われました。

最初のうちは蒼玄寮の先輩方が「洒落だ」というような論調で登壇していましたが、そののち抗議文を出した悠元寮委員長と副委員長が登壇し、泣きながら語ったところで、どうやら「洒落ではない」らしい、というような空気になったことは覚えています。何を決議したのかは全然覚えていません。

大忘年会実行委員会やガラスを割った人が謝罪文を書き、それが悠元寮に張り出されたのではなかったかと思います。悠元寮がらみの謝罪文を書いたという話は後にも何回かありましたから。

ちなみに寮の「謝罪文」は、模造紙いっぱいにマジックで書く、ということが暗黙の了解になっていました。(模造紙数枚に渡って書く人も居りました。)

大忘年会の終焉

90年代終盤になると、大忘年会は再び問題になります。

総合年表1999年度「12月 最後の大忘年会」より引用します。

あまりに盛り上がりすぎて、98、99年と2年連続で警察が来る騒ぎになり、学校側からストップがかかった。当時の参加者は、98年が80人ぐらい、99年が60人ぐらい。

悠元寮内に蒼玄寮生が侵入し、悠元寮生が警察の出動を要請したことが、98、99年と2年続き、大忘年会は大学から禁止された、ということです。

事前に問題の予測や回避策を考えることはできたであろうと思いますが、私の卒寮後のことですので知り得ません。

個人的考察

大忘年会での悠元寮突撃は、89年には大問題になったものの寮自治のシステムの上で解決がなされました。その後90年代前半は「器物破損はしない、中には入らない」(当たり前のことなのですが)のような雰囲気が生まれ、大きな問題は起こりませんでした。

悠元寮のある先輩は「蒼玄寮生がベランダから来るというから一升瓶を用意して待っていた。来やしなかった。」と仰っていました。(その先輩の部屋は4階でした。)

大忘年会の翌日、悠元寮の後輩数人から「ベランダの外で騒いでいたでしょう?」と言われて気まずかった記憶もあります。

全てが、とは言いませんが「洒落」で済ましてもらえる関係性はあったように思います。

しかし90年代後半になり、悠元寮生と関係性を築かない蒼玄寮生が空気を読むことなく突撃を行い、そのうえ実際に侵入すれば、それはさぞかし恐怖を与えたことでしょう。警察の出動が要請されてもやむを得ません。(とはいえ、侵入するだけでそれ以上の犯罪行為はなかったでしょう。全裸ではあったかもしれませんが。)

兎に角外部の介入で解決を図るのは自治ではありませんから、大忘年会の終焉も然るべきことであったかと思います。

また、先に紹介いたしました「’84 大忘年会にカウンターを撃て!」を読むと、忘れられたころに「時代は繰り返される」ものかもしれません。

以上はあくまでも個人的な考察です。

最後に、大忘年会に出動したお巡りさんは、食堂のごさが踊りも見ていたであろうことは、想像するに難くありません。(報告書に書いたのでしょうかね。)

おわりに

以上、蒼玄寮の一大行事である大忘年会について記しました。

次回は、最後の行事として「卒寮式」について記した後、これらの行事と寮自治との関わりについて書きたいと思います。