年間行事編の最終回として卒寮式をご紹介します。そしてこれらの行事と自治の関係について、その後の寮の終了までを書きたいと思います。

卒寮式

総合年表1986年度によると、卒寮式は当初は悠元寮(女子寮)のみで行われていたようです。
(右の写真は1976年度の悠元寮卒寮式での記念写真です。)

87年3月 蒼玄寮で初の卒寮式
それまで悠元寮だけで行なわれていた卒寮式が、蒼玄寮でも行なわれた。翌年から、悠元寮と合同の式典になる。

90年代前半では、3年生を中心に卒寮式実行委員会が自主的に組織され、その企画をしていました。

卒寮式は3月、夕方から食堂で行われました。

卒寮式の内容

式の内容は、通常の卒業式とほぼ同じです。

三委員長、寮の職員さん、来賓からの祝辞、卒寮生の代表からの答辞、卒寮証書授与、寮歌斉唱がありました。

卒寮生の定義

学生部長や厚生課長、学寮主事の先生などの来賓の方々は、殊更に「卒寮生は卒業生とは違う、ということをお聞きして云々」とおっしゃられました。

4年生以上の寮生の中には、3月に退学や除籍になる人もいて、その人たちも「卒寮生」としてお祝いしていました。大学の方は、そのことを皮肉られていたのだと思います。

いまさらですが、埼玉大学学生寮では入学からの年次そのままで4年生、5年生、6年生…、と言っていました。(医学部生でも薬学部生でもありません)

卒寮証書

卒寮証書には、卒寮生一人一人に、そのキャラクターやエピソードを交えた文面が手書きで書かれました。

その授与では、卒寮式実行委員長により一枚一枚が読み上げられ、その卒寮生に手渡されました。笑いも起こりました。

コンパ

式の後は食堂に畳が敷かれ、例のごとく朝までコンパになりました。

コンパ中の企画もあるのですが、その中の一つが「卒寮ビデオ」であったことは、「お祭り編」の「写真について」の節に書いた通りです。

ある年には、小学校の卒業式で行われるような「よびかけ」を行いました。

「卒寮生の」「お兄さん」「お姉さん」「ご卒寮、おめでとーございます」(全員:おめでとーございます)

というように。

これまで書いてきたような行事が面白おかしく盛り込まれ、これまた笑いをさそいました。

ごちそうさまでした」の寄稿「幸せな選択」より、卒寮式のコンパ企画についての記述を引用します。

一つ上の代の方々の卒寮式(送り出す劇の中でタイムカプセルの使者「サンダーバード」が発進してから、当時は悠元寮の後輩に会うのが無性に恥ずかしかった)です。

退寮

寮には3月31日まで居ることができましたから、新しい住処が決まった人から、三々五々に寮から引っ越していきました。

「今から〇〇さんが寮を出ます。お見送りに蒼玄寮ロビーまでお越しください」のような一斉放送がなされ、個人のお見送りがなされたりもしました。

寮自治としての行事

以上4回に渡った、年間行事の紹介は終了です。

通してお読みいただいた方には、通常の大学生、或は大学管理寮の寮生とは違った寮生の姿を感じて頂けたかと思います。

もちろんすべての寮生が行事に参加したわけではありません。

一年生は半強制的に新歓に巻き込まれるのですが、その後のお祭りには出てこない人も居りました。また3年、4年と学年が上がるにつれ、顔を見せなくなる人も居りました。

それでも100人以上は各行事を楽しんでいたと思います。

寮自治編」に書いたような、「規約」(寮の憲法)に基づく体制にて諸問題にあたることを「狭義の寮自治」とすると、これらの行事の企画・運営も含めて「広義の寮自治」と言うことができます。

寮自治の片輪として

また、「規約」に基づく体制を寮自治の片輪とすると、行事の運営はもう片輪とも言うことができます。片輪が機能しない場合、もう片輪の動き得ません。

 

その一例は「大忘年会編」の「大忘年会問題」の章にて示しました。

大忘年会は寮の伝統行事でしたが、その終焉は、外部の介入なしに問題解決ができなかったことが原因にありました。

 

もう一例として、学生寄宿舎の例を挙げます。

寮が廃止となり学生寄宿舎に改装されたとき、当時の食堂は仕切られ、3つほどの集会室になりました。

学生寄宿舎になって数年後の、大学ホームページの案内PDFに「これらの集会室は利用ルールを守らない者がいたため、現在は使用禁止」とありました。(2018年現在はもう利用可能かと。)

大学管理寮としては然るべき処置なのですが、自治寮であったなら、ルールを守らないものは(謝罪文のような)お仕置きを受け、その他のものが利用できないといったような不利益を受けることはなかったでしょう。

これらのように、自治でない(できない)場合、楽しむ場の剥奪もやむを得ません。すなわち寮自治は「楽しむ場」を維持することに他なりませんでした。

「楽しむ場」の縮小

逆に片輪の「楽しむ場」の必要がないのであれば、それを維持するための片輪も必要ありません。

総合年表からは、数々の行事が縮小していった様子が伺われます。

  • 1998年:春 新歓で最後のはんことり競争(99年?)/秋 最後の寮祭
  • 1999年:春 最後の新歓地区別運動会/12月 最後の大忘年会

ごちそうさまでした」の寄稿「便乗寄稿 『卒寮を迎えて』」によると、「カクテルスナック・スコーピオ」がなくなったのも1998年頃のようです。

 

「埼玉大学五十年史」(1999年、埼玉大学50年史編纂専門委員会編)に、この時代の学寮の様子が書かれています。第Ⅱ部部局史編 第2章学生部 第3節学生寮の最後の項から引用します。

寮生活の目的は、集団生活での規律の維持と寮生同志の連帯感の増進、ならびに環境整備への取組等があげられるが、寮委員会委員と一部の寮生を除くと大部分の寮生は無関心である。全寮制の旧制高等学校や旧制師範学校の例にみられるように、昔は寮のルームメート間の連帯感は強固なものであり、人格形成に役立ったといわれてきた。しかし、戦後50年経ち少子化と個人主義が強くなった現状では望むべくもないことかもしれない。

大学当局からの視点なのでズレた表現ではあります。(「寮生活の目的」や「昔は寮のルームメート」云々)

しかし兎に角1998年頃の学生寮は、大学側から見て以下の様であったことがわかります。

  • 「寮委員会委員と一部の寮生を除くと大部分の寮生は(寮自治に)無関心」であった
  • 「(集団生活が人格形成に役立つということは)個人主義が強くなった現状では望むべくもない」と思われていた

その後

2003年の「厨房の皆様の卒業式」は現役寮生の実行委員会とOB・OGが協力して企画しました。写真を見ると式の参列者のほとんどがOB・OGであるように見えます。

そして2010年に学生寮はなくなることになりました。

その年度は「さよなら蒼玄寮悠元寮」の打ち合わせによく寮を訪ねていたのですが、学寮の最後の企画としてバンドのライブが行われていたことが印象に残っています。(Amの名前はありませんでしたが。)

おわりに

年間行事の最後として卒寮式を紹介し、更にこれらの行事を含めた姿全体が「寮自治」であることを書きました。

更に1998、99年の行事の縮小と、大学当局の視点を示しました。しかしそれを「寮自治の両輪の縮小」と見るのは個人的なものです。本当のところは当時在籍した寮生以外にはわかりません。

次回は寮の職員さんとの交流から同窓会への流れを書きたいと思います。