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大忘年会実行委員

大忘年会実行委員の勇姿。
彼らにすすめられた酒を断るものは、誰ひとりいなかった。

絵と文・千葉-81年

嵐の予感が、寮全体を包み込んだ……

悠元寮

刺激的な貼り紙に、男たちの心はざわついた……

 私が4年生で、大忘年会実行委員長のときのことです(第12回だったでしょうか?)。当時、2年下にK君という非常に活発な悠元寮生がいました(彼女が新歓の『ハンコ取り競争』の発案者です)。元気なのはいいのですが、こともあろうに『蒼玄寮をぶっとばせ!』というキャッチフレーズで『悠元寮大忘年会』を企画しました。
 そしてこのコピーは、悠元寮北側の窓にデカデカと張り出されたのです。
 これを見た蒼玄寮生の一部は、
「ほほぅ、面白れぇじゃねぇか」
「悠元寮大忘年会?どこでやるんだ?」
 とやる気満々。またある一部は「酔っ払いに『襲いに来て☆』と言っているようなもんだ。まずいぞ」と心配顔。様々な思惑の中、実施の日は刻々と近付き、忘年会の準備も着々と進んでいきます。

期待(?)を盛り上げたプレ企画の数々

 準備といえば、寮生の皆さんが『蒼玄寮大忘年会』の到来を間近に感じる催し(プレ企画?)がいくつかあったはずです。80年代半ばですと、以下のようなことがありました。
(1)チケットの各部屋訪問販売
(2)風呂場での「三助」によるキャンペーン
(3)昼食時の寮食堂での「寸劇」
(4)寮食堂壁面への「役職名」の貼りだし
(5)前日・当日の悠元寮からの施錠時間などに関する放送

 (1)~(3)までは、同期のF君が82年から始めたものです。とくに(3)の「寸劇」についてはファンも多く、浅野さんなどはわざわざカメラを持って見にいらしてました。
 (4)「役職名貼りだし」はこれらより古いはずですが、年々過激になり、その破廉恥さや理不尽さに閉口した方も多いかと思います。この頃には田中さん考案の役職名もいくつかありました。このことについては、また別の機会にお話しの場を設けましょう。
 (5)「悠元寮からの放送」は、もちろん大忘年会実行委員会からの仕掛けではありません。
「明日は寮食堂で蒼玄寮大忘年会が開かれますので、悠元寮出入口のカギを通常より早く、○時に閉めます…」
 というようなアナウンスが(たぶん悠元寮監査委員会からだと思いますが)、前日の昼食時や夕食時、全寮に放送されるのが普通でした。

 しかしこの年の放送は、例年と少し違っていました。内容はもう覚えていないのですが、前日の夕食時、いつもよりも過激な口調のアナウンスが、悠元寮監査委員会からではなく、『悠元寮大忘年会実行委員会』のK君によって放送されたのです。
「これは明らかに、我々大忘年会実行委員会に対する挑発だ!」
 聞いていた私は憤慨し、すぐさま事務室に駆け付けました。
 当のK君はすでにいなかったのですが(あるいは悠元寮からの放送だったのでしょうか?)、すぐさま私も全寮に向けて放送しました。
「明日12月〇日は、寮食堂で蒼玄寮大忘年会が盛大に開催されます。悠元寮生は各自のベランダにバケツに水をはって置き、十分警戒してください!」
 …この時点で「いよいよだな」と思った方も多かったのではないでしょうか?

そして伝説の忘年会の火ぶたが切って落とされた

大忘年会マップ'84

当日の状況を再現した図

 こうして『悠元寮大忘年会』の企画者K君とは事前に接触することもなく、とうとう当日の夜がやってきてしまいました。
 寮食堂に男たちが100人ちかく集まっています。ある者はタスキをかけ、ある者は地肌にマジックで部屋番号や名前を書き、乾杯のときを「今や遅し」と待っています。
 私は実行委員長として「突撃隊は『悠元寮大忘年会』に迎合せず、あくまで突撃の姿勢を貫くべし、防衛隊はこれを全力で阻止すべし!」と挨拶しました。
 この言葉もまた、その後の悠元寮への過激な突撃行為を助長したことは間違いありません。

 これより2年ほど前の大忘年会は、参加者が寮食堂の外(悠元寮)に向かうことが少ない割に爆笑できた事件も多く、本当に楽しい忘年会だったと記憶しています。
 大忘年会に対して「記憶」というのも変ですが、途中で部屋に戻って洗面器いっぱいに気持ちよく戻し「最高だぁ~」と思った記憶だけは鮮明にあります。
 しかしこの年(’84)は、そうはいきませんでした。
 悠元寮の前に、わらわらと男たちがいます。「一緒に飲もうよ~」とか「合流しようよ~」とか言っている軟弱な輩ももちろんいますが、ベランダに近寄ると(前日私が放送で提案したとおり)、バケツに用意した水が「待ってました」とばかりにかけられます。
 私も様子見がてら行くと、同期の悠元寮4年のO君が、1階のベランダに出てきて「千葉クン、頑張ってるね~」と、余裕の表情。ものわかりのいい悠元寮の皆さん、ありがとう!

……しかし当然、事態はこれだけで済むはずがありませんでした。
 おおかたは翌朝に報告を受けて判ったのですが、窓ガラスの破損がけっこうあり、中には天窓のガラスを割って侵入を試みた者さえいたのです。
 もちろん、悠元寮はカンカン。監査委員のf君が「やり過ぎです!警察を呼びます!!」と、涙目で訴えます。
 ……報告を聴けば、「やり過ぎ」と言われても仕方がない内容でした。

ああ、涙と感動と笑いの公開剃髪式

 「留年の決まった(それどころか卒業の見通しもない)我々はともかく、前途ある(?)他の寮生に『警察』はまずい。なんとか矛先を収めてもらえないだろうか?」と悩む私が、とっさにひらめいたのが「頭を丸める」という手段でした。
 なんとか監査のf君に「(犯人)全員の頭を坊主にさせるから、警察は呼ばないでくれ」と頼み込み、午前中のうちに『ロヂャース』へ走り、電動バリカン『スキカル』を購入しました。
 午後からは「犯人探し」です。あやふやな記憶と報告を寄せ集めて「犯人を特定」しますが、いざ「逮捕」しにいくと、
[おぅ、××君、いるか?]
「××君なら、バイトでいませんよ」
[くそぅ、逃げたなー!]
 ……という調子。でも、何とか夕方までにはほぼ全員の「身柄を確保」することができました。

 夕食の前頃に事務室に行き、全寮に放送をかけます。
「今晩7時より食堂におきまして、先日の大忘年会での悠元寮侵入者に対し『公開剃髪式』を行います。ご用とお急ぎでない方は、カメラを持って食堂までおいでください。」
 この放送を受けて、十~数十名の寮生男女が寮食堂に集まりました。当時のメジャーな「蒼玄寮カメラマン」の他、悠元寮からも「にわかカメラマン」が登場してきたと記憶しています。
 場所はたしか、アコーディオンカーテンの前でした。新聞紙を2畳ほど敷きつめて、イスを1脚置きます。
「ではまず、私から」
 全体の責任を取り、私がトップバッターとして座り、2年のI君に新品のスキカルを手渡します。
「ビー…」という軽快な音とともに、坊主頭のいっちょあがり! 言っておきますが、私は悠元寮に侵入はしておりません。「そそのかし」の罪です。

「風呂場ガラス破損」の罪で坊主になった、空手部のS先輩の潔さは見事でした。
 夕食前に私がおそるおそる、「Sさん、坊主になってください」と部屋へお願いに行くと、翌日の就職面接(某県庁)のためにわざわざパーマをかけたばかりだというのに、「あぁ、そうかい」とふたつ返事で承諾してくれました。
 ほかの若いモンがジタバタと逃げ隠れしているのに比べて、なんと潔いことか! ……今思い出しても、その男気の良さに感動します。
 翌日、もちろん坊主頭で面接に行き、見事合格したそうです。
 冤罪というべきか……そのSさんの割ったガラスの破片の掃除のために悠元寮風呂場へ入った、私の同期のF君も坊主になりました。

 ホウキとチリトリでシャカシャカやっているところで悠元寮生に出くわし、「キャ~!」となったのですから仕方がありません。が、どこかマヌケですよね。
 あまり知られてないはずですが、これまた同期のB君(海外在住)が悠元寮に侵入した「らしい」のに、頑として坊主にならないということが、裏ではありました。F君のマヌケな坊主刈りは、実は「B君の身代わり」という、崇高な行為と考えるべきなんでしょうね。

坊主頭

それぞれに崇高な輝きをはなつ9つの坊主頭。

 多くの寮生の温かい(好奇の)視線が見守る中、都合9人が坊主頭となり、全員で記念撮影をしました。
 大きく引き伸ばされた『坊主’S』の写真が、しばらくの間寮食堂に貼り出されていました。あの写真は誰が撮り、今どこにあるんだろう? ご存知の方はご一報ください。
 坊主になった後、気にせずそのままの人もいれば、帽子をかぶる人もいました。私は「帽子派」だったのですが、教養学部の学務前を通るたびに、係の人から「どうしたの?」と何度も聞かれ、困った記憶があります。
 傑作だったのは、「カツラ」を購入した人がいたことです。かなり高価なものだったと聞いていますが、スタイルが「昔の西城秀樹」みたいで、あからさまに怪しかった印象があります。

ところで、『悠元寮大忘年会』の顛末は……?

私設防衛隊長

布団の下はダウンジャケット。燃える使命感のせいか、悠元寮生のあたたかい視線のせいか、寒さはさほど感じませんでした。

 こんなわけで、84年の大忘年会は、はからずも「大坊主年会」になってしまいました。
 これに懲りた私は、翌年も翌々年も、悠元寮の玄関に布団を敷いて「私設防衛隊長」となり、朝まで寝ることにしました。
 このときにも、朝、目が覚めると枕元に、悠元寮の方からねぎらいのお手紙に花が添えて置いてあったり(ちょっと「死体」になった気分もしましたが…)、
 たまたま引越しの手伝いか何かでいらした、某悠元寮生のご両親から「ここが玄関ですか?」などと声をかけていただいたりと、心温まる思い出がいっぱいできてしまいました。

 さて一方、「坊主」の原因の一端となった『悠元寮大忘年会』は、どんな様子だったのでしょうか? 当時は自分たちの身に起こったことに夢中で、とくに気にもしなかったので聞きませんでしたが、今はかえって向こう(悠元寮)のあの晩の様子が気になります。
 私が知る限りでは、ただ1回の『悠元寮大忘年会』。……誰か記憶のある方、いらっしゃいませんか?