2017年10月7日、南与野駅から下大久保まで散歩しました。

前回から続いて、大久保領家の日枝社とその境内の「大久保の大けやき」に向かいます。

日枝社は、大学構内にあった氷川神社と対をなす神社で、中世には、5日、15日、25日はこちらの神社で、9日、19日、29日は氷川神社で市が立ち「五九の市」と呼ばれていたそうです。

大久保の大ケヤキ/大久保日枝社

大久保領家公園から少しだけ歩いて、角を曲がると鳥居と社叢が見えました。

民家の庭から道に出た枝には、石榴がなっています。

大欅、大榧とはまた違った存在感です。壮観であることには変わりありませんが。

このときはもう鳥居は目に入りませんでしたが、今見ると明治三十年の銘があります。大久保氷川神社にあった幟立と同じ頃ですかね。

案内板を見ますと、八百比丘尼が植えたという伝説があるそうです。これだけのものを見れば人魚のエキスが働いているとも考えたくなります。

「ハバキ様」とも呼ばれているそうですが、そう聞くとアラハバキを連想します。関係ありやもなしやもわかりませんが。

案内板には樹齢が書いてありません。検索してみると推定1000年、と書かれているページがありました。とすると、与野の大榧と同じくらいですね。

このアングルからは、幹の中が空洞であることが伺えます。

樹皮が若々しい枝もあれば、巨大な瘤もあります。

西側は公園になっており、少し離れて大欅を見ることができます。

根元には彼岸花が萎れていました。根がここまで張る前の時代に、球根が植えられたのでしょうか。或は根の上に球根を植えたのか。

そろそろ神社に向かいます。

その他の木や石灯篭なども、そこはかとなく良いんですけどね。大欅のインパクトが大きすぎ。

朱塗りの二の鳥居をくぐって日枝神社に向かいます。

御祭神は大山咋命、素盞嗚命の愛孫とあります。

大山咋命はあまり聞き慣れなかったので調べてみました。もともとは比叡山の土地神で、最澄が比叡山に延暦寺を開いたときにこの神様もお祀りしたそうです。その神様が山からふもとへ御遷座したのが滋賀の日枝神社。日枝=比叡らしいです。

ご由緒の冒頭には「口碑によれば、鴨川の川上の山王様(当社)と川下の氷川様(下大久保の氷川神社)は共に船でやって来た兄弟の神で、この地の開拓の祖神とされている。」とあります。

恐らくこの伝承が真実に近く、その後神様の名前を(どこかで聞いたかも知れない)「さんのう様」「ひかわ様」と呼ぶようになり、中央との関わりの中で「山王様なら大山咋命である。大山咋命であれば日枝社とすべきである。」となったのではないでしょうか。日枝社に改称したのは明治維新のときですが、中央向けのご祭神の名前の決定はそれ以前かもしれません。

案内板にあるように、この場所での祭祀は少なくとも奈良時代まで遡れるようです。

「大窪つじ村絵図」に記載の「びくにとう」は比丘尼塔でしょう。大欅の伝説に通じます。「家内安全 縁結び 安産 酒造り」の他に、長寿にもご利益がありそうですね。

「ひかわみょう志ん」と「三のう」は取り違えたのでしょう。明治初期の地図にもここは「諏訪社」と書かれていますし。その「三のう」ですが、ここから南西、現在は庚申社が祀られているとあります。取り違えたとしたら、こちらが「ひかわみょう志ん」のはず。

上大久保氷川神社が元あった下大久保の大学構内の場所は、山王様から見て鴨川の川下とは言い難い、と思っていました。もしかしたら、氷川様は下大久保の前はその庚申社の場所にあって、いつしか移転したのかもしれません。あるいは鴨川の流れが大きく変わったのかもしれません。

その庚申社も気になりますね。(調べてわかれば、またの機会に。)

拝殿の中でしょうか、大久保領家の囃子連が、神田明神の祭礼の帰りにこの神社をお参りしたときの様子を描いた絵馬が奉納されているようです。

中央やや右が大欅の幹でしょう。神社は左端ですね。

西側にある境内社です。右から、諏訪社、御岳社、第六天社、吾妻社です。ご祭神はたぶん、建御名方命、国常立命、第六天王、日本武尊命。違うかも。御神体は御弊です。

右の三社は春日造(春日大社と同じ造り)なのですが、吾妻社だけ異なります。ちょっと凝っているので、作った人が違うのでしょう。

八雲社は、境内東側に、東向きでありました。ご祭神はたぶん素盞嗚命。

その隣に大きく「八雲社 神輿新調記念」の碑があります。この字は「浦和市長 中川健吉 謹書」。大忘年会にも来てくださいましたね。

日付は「昭和56年5月21日」です。寮史によると、この年(のあたり)に大忘年会が復活したそうで、やはり中川元浦和市長と大忘年会とのご縁が伺われます。

その碑のあたりから拝殿、本殿の覆屋を見たところです。新しい覆屋ですが、Tの字になっているところが面白いですね。善光寺も入母屋造でTの字ですが、正面が逆です。

 

参考:猫の足あと「大久保日枝社。さいたま市桜区大久保領家の神社

今昔マップ on the web」で見る)

大学正門へ

そしてまた大欅を眺めた後に、大久保領家公園を通ります。

この時間には子供も遊んでいましたし、また私が休んだあたりにはヤンキーがたむろしていました。

大学構内に入る前に、正門前のバス停のところの、小さな公園に寄ります。

埼玉大学統合建設記念之碑
昭和四十八年一月吉日 浦和市長 相川曹司

御礼のことば
埼玉大学は、昭和二十四年五月、埼玉の教育揺籃の地たる浦和市に設置されました。しかるに本学の文理学部、教育学部、学生寮等は市内の常磐六丁目、九丁目等に分散して不便をかこち、本学の統合は学校関係者にとつて多年の念願でありました。
昭和三十七年以来、学部も増設され大学としての充実が図られる一方、統合移転の動きが具体化し、荒川の流れに程近い緑豊かなこの地に学園の統合を見ることができました。この敷地を得ることは、地元の浦和市、埼玉県ならびに関係地主の方がた、浦和振興公社等、本碑に列記されている各方面の多大のご尽力により実現できたものであります。
当時の学長として関係各位に厚く御礼申し上げると共に、ここに感謝の一端を記します。

埼玉大学元学長 藤岡由夫

学生寮につても触れられていますね。また石碑の裏には沢山のお名前が刻まれています。

 

大学構内につづく。