2017年10月7日、南与野駅から下大久保まで散歩しました。

前回から続いて、埼玉大学構内に入ります。

上大久保氷川神社が元あった様子を想像しながら、あたりを散策します。

元氷川神社

「メインストリートと経済学部の間の林は、昔ここにあった神社の鎮守の森の名残り。」

在学中に友人から一度だけ聞きました。(私も、物知り顔で話したことがあるかも。)

そんなことはもう25年も忘れていて、今年になってインストールした、「東京古い地図」というスマホアプリで大学あたりを見たときに、そこには鳥居の記号がありました。

25年ぶりに線がつながった気がしました。これがこの散歩のきっかけ。

いよいよ大学構内で鎮守の森の名残りを見てみようと思います。

元氷川神社探索

タイトルには「元氷川神社」と書きましたが。もちろん上大久保氷川神社の元であって、大宮氷川神社の元ではありません。(大宮氷川神社も正式には「武蔵一宮氷川神社」です。)

きっかけとなったアプリ「東京古い地図」で使われている地図が、農研機構農業環境変動研究センターの「歴史的農業環境閲覧システム」です。明治初期から中期までに作成された「迅速測図」というものだそうです。

埼玉大学教育学部、谷先生の時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」にも迅速測図があり、記事にも埋め込めるのでこちらを使わさせて頂いています。

ということでPCでご覧の方は、左の地図の上でカーソルを動かして頂くと、大学構内でスマホを見ながらうろうろしていた怪しいオッサンの気持ちがお分かり頂けるかと思います。

今昔マップ on the web」で見る)

大学会館の前です。

東京古い地図によると、ここが境内の南東角。ここから本殿があったはずの方向、北を見ながら、二食の方へ歩きます。

大学会館と保健センターの間にも、北方向に林が続いています。大学会館の西側がテラス席になっており、ここから奥(北)に入れそうなので入ってみます。

大学会館のこちら側が、カフェかローソンのカウンター席に面している模様。カウンターの学生さんの訝しげな視線を感じますが、気づかないふり…。

そのカウンターの向かいあたり、下草が払われた空間がありました。

そこそこ大きな石が二つ三つ、萎れた彼岸花が沢山。一、二週間前はきれいに咲き誇っていたのでしょう。

北の端、埼大通りに面したあたりです。ここから保健センターの側に開けており、ちょうど本殿(と思われる辺り)をぐるっと回れるようになっていました。

妄想するに、この空間の北の端と埼大通りの間の開かれたスペースに本殿があったのではないでしょうか。上の写真は、拝殿の横からその前のスペースを眺めている感じ。

この空間をぐるっと回って、保健センターの側からもどり、経済学部の横から図書館方向へ向かいます。

工事の終わった経済学部棟(昔は経短の建物)から東側、林方向を見た様子。

この二食横の花見の広場から図書館に抜ける小径、メインストリートと比べると斜めだったことをご記憶かと思います。

この道の方向が、鎌倉街道・羽倉道に垂直な、本来の元氷川神社の参道と同じ方向(羽倉道は神社の後ろを通っていました)。そしてセブンイレブンの横に入る道も古い道で、同じ方向であることが地図を見ると分かります。

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この鎮守の森は、恐らく参道の社叢。九つくの日は、この参道か、あるはそれを挟んだこの小径とメインストリートで市が開かれていたのではないでしょうか。

小径を図書館に抜ける前に、メインストリートに抜ける石畳があります。この写真はそこから北と南を見たところです。参道から本殿方向と入口方向を見たイメージ。

この辺りは落ち葉が集められていたり、手が入っているようです。

メインストリートを正門方向に戻り、掲示板を切れたあたりから林をのぞき込みました。

この辺りは鬱蒼としています。向こうに大学会館が見えます。

鎮守の森

さて、妄想しながら林を回ってきました。

この林は、残された鎮守の森でしょうか?それとも昭和45年までの大学の工事で、一端さら地になった後に植えられたのでしょうか?

それほど太い木があるわけではありません。しかし昭和40年にご遷座された後の上大久保氷川神社の社叢よりは木が太い様に思えます。

このシリーズを書きながら思い出しました。「寮史のアイコン作るのに、古い大学の航空写真使ったかも。」

この写真は、埼玉大学のホームカミングデーのパンフレットからの引用。上辺中央が学生寮、右辺やや下が正門です。

昭和45年、確かに悠元寮が建てられる前。くっきり鎮守の森が写っています。昭和40年に神社が上大久保にご遷座された後も、残された社叢でした。

思えば昭和の末に建てられた大学会館も、わざわざ正方形の建物にせず、この森をよけた感じの形です。

今後もこのことが語り継がれ、鎮守の森が大切にされるといいですね。

鎮守の森の補足

この節と、その次の節は書き足しです。

この稿を書き終わって公開までの間に、もっとわかり易い画像を見つけました。

毎度の今昔マップなのですが…

今昔マップ on the web」で見る)

左が1961-64年の航空写真、右はいつかはわかりませんが最新の航空写真です。

神社が上大久保にご遷座する直前と思われる左の写真には、方形の鎮守の森がくっきり。さらに参道の奥西側に屋根とその前のスペースが見えます。

カーソルを動かすと、当時の鎮守の森の中央と、今の林の中央がずれていることがわかります。大久保領家公園の東の道とそこにある川の交点はほぼ一致していますので、2つの航空写真の座標は一致しているとして考えてみます。

元氷川神社の参道は、ほぼ経済学部の横を通る小径と一致します。今残る林は、鎮守の森の東半分。

拝殿・本殿が参道の直線上であれば、保健センターの場所にあったことになります。私が拝殿前と思ったのは、拝殿・本殿の東側の社叢。

左の航空写真にある、参道奥西側の屋根が拝殿とすると二食の床屋だったあたりになります。しかし明治時代の地図では緑に囲まれているエリアから外れているところから、拝殿ではなく社務所か集会所だったのではないでしょうか。

ということで、図書館から二食へ向かう小径そのものがかつての参道であった、と考えたいと思います。探索のところに書いた妄想ははずれらしいですが、最初の印象なのでこれはこれで残しておきます。

 

さらに大学構内の北西、大学会館から二食、さらにその西側にかけては「本村遺跡」という古墳時代(或はそれ以降複合)の遺跡のようです。

保健センターと大学会館の間、私が氷川神社の本殿があったと思ったあたりに円墳があったらしいです。

古墳のあったところに神社が祀られている例は、ままあります。(祭祀の場所としての共通項なのか、神社なので保存されやすいのか、あるいはその両方か。)

まとまった研究レポートは読んでいませんが、今後読める機会がありましたらまた整理したいです。

御由緒の補足

御由緒とその考察につきましては、上大久保氷川神社大久保日枝社の稿で書きましたが、ちょっと補足。

もともと「ひかわ様」とは、この辺り(武蔵野)の水の神様のようです。大宮氷川神社を始め、県内所々にある氷川神社も水に関連する場所にあったりします。

日本武尊の時代の武蔵国造が出雲出身ということで、大宮氷川神社の御祭神は、中央も知っている神様である素盞嗚命になったようです。そのほかの「ひかわ様」も、これに倣って御祭神の名が素盞嗚命になったのではないかと思っています。

(これは私の推測です。反対に「祭祀の開始より素盞嗚命をお祀り」という説もあることでしょう。また出雲との関りから「ひかわ=斐伊川」という説もあります。この説を取ったとしても、中央と関わる以前からの土地神に、出雲系の人が後から名付けた、との推測も可能です。)

この氷川神社も元入間川(鴨川)の近くにあり、川から来た(川上か川下かわかりませんが)兄弟の開拓神の一方。そして昔の名前も日枝社の「山のう」に対して「ひ川」と、山・川一対になっています。

また、上大久保氷川神社の境内には門客人社がありました。それももとはここにあったのでしょう。大宮氷川神社にも門客人神社があり、「門客人=アラハバキ」という説があります。(今の御祭神は足摩乳・手摩乳命)

そして大久保日枝社にある大けやきは「ハバキ様」と呼ばれていました。

アラハバキが何なのかはわかりませんが、これまた中央の知らない(記紀にはない)神様です。

元入間川から寄り来た客人(まろうど)が開拓神であり、記紀にはない「はばき様」と「ひかわ様」であったとも妄想することができます。

或は、「ひかわ様」は水を表すことから土地神様で、「はばき様」は寄り来た神様。祭祀の仕方で区別がなかったためにそのうち兄弟という伝承ができた、とも妄想できます。

この川沿いには、ここいらの大久保古墳群をはじめとした古墳群があります。このことからも川沿いに流通や交流があり、富の寄り来る流れであったことが伺えます。(元入間川については次回にも触れています。)

大学構内

興味のない人には、同じような藪の写真とわけのわからん話しでした。

大学構内の写真をご期待された方、すみません。あまり撮ってません。撮ってあっても私の興味目線です。

メインストリートの池と向こうに「猿山」です。確か平成4,5年頃できたと思います。

その前か前々年に大雨が降って、学内が十数センチ冠水しました。それでメインストリートの地下に貯水槽を埋める工事が始まって、そのついでにできたのだと思います。

当初は水を湛えていましたが、やっぱり清掃等の管理費が嵩むのか、そのうち水は抜かれました。今思えば、維持管理費も見積もっておけと、東京オリンピックの施設を見越したような、尊い教えでしたね。

そして工事の終わった図書館。シンボルであった?階段はなくなりました。(経済学部棟も同時期に工事だったのですが、鎮守の森に夢中であまり見ていません。)

池と言えば、学生部の辺りに池があったなあ、と思い、行ってみることにしました。

ちょっと前に御神輿で厚生部アタックの動画をアップしましたが、御神輿がメインストリートを外れ回りこむあたり、学生がほとんど来ない緑の空間がありました。

一旦東門まで行って北にあがると駐輪場。建物が一棟あったかもしれないところも駐輪場。もう池もそれを囲む緑の空間もありませんでした。

(恐らく以前から、耐震工事や寮の廃止のあたりから駐輪場だったのでしょうが、気が付きませんでした。こんな辺り来ませんからね。)

そして東側の道を南に進み、工学部の横。

学生が住んでいそうなテントがあったり、地熱変化が生態系に及ぼす影響を調べているという区画があったり…

車部だったか学生が勝手に車を入れていた辺り(テニスコートの手前)が駐車場だったりしました。

写真は一食ですが、自販機の側の入り口は無いようです。南側から覗いてみると、一段低くなっており、中も変わっているようですね。

やっぱり大した写真はありません。(学生さんが写りそうなときは、もういいや、と。大学会館は撮ってしまいましたが。)

 

次回で最終回です。寄宿舎(寮)の脇から下大久保諏訪神社へ、そして秋ヶ瀬の堤の道につづく。