第20回(1971年)
メインスローガンは「若い船乗りたちよ 連帯と闘いを舵として 荒れ狂う歴史の海に向って 舳先を向けろ!」

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沖縄が返還されたのは72年5月。当時の寮生にとっては、大きな関心事だったようです。
「民主的拡大女子新寮実現!」は、当初は150人の定員で独自の食堂も作る予定だったのに、
規模が縮小されそうになったことに対する抗議。
結局「拡大」は実現しませんでしたが、食堂がいっしょだったのは結果オーライかも。

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前年の「下大久保大運動会」から「スポーツ祭典」へと名前が変わり、プログラムの内容も、
娯楽色がかなり強まっています。それにしても、フォークダンスや二人三脚のほかにも、
「男女1組」の競技がやたら多い気がしてなりません。ま、気持ちはよくわかりますが。
広告の「サラリーマンコンパ」って、それが店名なのでしょうか?

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「フュイヤー(ファイアーのこと?)かこんで」念入りに行なわれるフォークダンス。
「日本の民謡もとりあげる予定」のフォークフェスティバル。ああ、青春のガーパ。

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「寮生大会の度に寮のアパート化、連帯感の喪失等が論ぜられる」という記述がありますが、
すでにそういうことが問題になっていたようです。
でも、当時の寮生が20年後30年後の寮生の様子を見たら、いったいどうおっしゃるでしょうか。

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おお、スコーピオ! 名文ぞろいのこの頃のパンフレットの中でも、このページの文章は、
読むものをしてうならさずにはいられない天下の名文です。じっくりご鑑賞ください。

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別所で行なわれた最後のデコ展。最後なので「各部屋を大々的に開放」してくれたようです。
さらに、「悠元寮生の寮生活の成果を赤裸々に見ることができる」模擬店まで……!!
どういう模擬店だったのか、みんなで想像しましょう。

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「ほら楽しいゲームに時計が速足だよ!」なんて、書こうと思って書けるフレーズではありません。
いや、茶化しているわけではなく、本気で感心しています。
どうでもいいですが、この写真は明らかに大宮スケートセンターではありませんね。

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晩餐会の中に「寮の炊夫さん、栄養士さんたちと語り、飲み、声を合わせて歌おう」とあります。
この年の春に着任したばかりの初々しい衛藤邦子さんも、まだ若手だった田中英雄さんも、
当時の寮生たちと声を合わせて歌ってくださったはずです。

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移転前の悠元寮は、このへんにありました。
そして、30数年前のチーター(水前寺清子)は、こういう感じでした。

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わざわざ学生部長が、近所のお店などに向けて、
「御援助を賜りますようお願い申し上げます」という紹介状を書いてくれています。

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こちらは、実行委員長から、おそらく卒寮生を中心とする人たちへの「御援助」のお願い。
その頃の世間は、今よりもずっと大学生にやさしかったようです。