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世相・事件・流行歌

生花サークル

 発足年は不明。名称も不明。週一回、春草流という流派の先生に来てもらって集会室で花を生けていた。「私たちのころで、10人ぐらいいたかしら。みんな、いちおうかしこまっちゃってね。楽しかったわよ」(OGの証言)

社交ダンスサークル・フェニックス

 発足年は不明だが、このころには存在していたことが確認されている。

「1ヶ月ぐらい入ってみたけど、あれは、蒼玄寮生と厚生短大生の出会いの場だった。それに気づいて、すぐやめた。トホホ……」(悠元寮76年入寮生の証言)

 その後、埼玉県学生寮交流ダンスパーティを定期的に開催するなど、埼玉県の寮文化の発展に寄与したり、あちこちの寮生同士を結び付けたりなどしてきたが、1985~86年ごろに消滅。

「私たちがいた80年代前半頃は、夏は寮食堂、年末はどこかの会場を借りて、けっこう盛大にダンパを開いてました。食堂でやる時は、ミラーボールを借りてきて、暗幕を張って。いちおう主催者ってことで、フェニックスのメンバーによる模範演技(?)の発表があるんですよ。ダンパの前になると、食堂の机を寄せて、ラジカセで音楽をかけて、夜遅くまで練習したもんです。ええ、けっこう真剣でしたよ。当日は、男は入学式の時のスーツ姿だったけど、女の子なんか、いちおうパーティドレスを着たりなんかしてね。そういえば、ハイヒールで踊るもんだから、食堂の床のタイルを割りまくって怒られたこともあったような気が……」(元メンバー)

鈴木さん夜の応援伝説

「とにかく、懐の深い人だった」「豪快な人だった」
 1970年代後半の寮の歴史は、彼なしでは語れない。入寮は73年の春(74年?)。いつも学生服を着て、ゲタをはき、顔じゅうにヒゲをたくわえた彼の姿は、ただでさえインパクトが強かった。しかし彼は、たとえ姿が見えない夜でも、毎夜、蒼玄寮と悠元寮に強烈なインパクトを与えたのだ。
 それは、いつも決まって夜の10時。当時の寮周辺は、誰かが北浦和駅でコインを落としても聞こえるぐらい静かだった。そこに、いきなり響く腹の底から搾り出されるエール。
「フレー、フレー! サイダイ、フレー!」
 彼の真夜中の応援は、いつしか寮の名物となり、その重厚な声を聞くと反射的に夜食が食べたくなる悠元寮生も少なくなかったという。
「寮食堂にね、なんか丼を持って現われるのよ。何かと思ったら、ワカメが山盛り入ってて、寮のご飯を食べながら、それをムシャムシャやってんの。迫力あるんだけど、おんっもしろい子だったわねえ」(衛藤さん)
 卒業後は原子力関係の仕事につき、ある時は、桂三枝が司会を務める「新婚さんいらっしゃい」に出演するという快挙も成し遂げた。奥さんと知り合ったきっかけは、電車に偶然乗り合わせたことだったとか。
 当時の寮生に愛され、慕われた鈴木さん。「あの応援の声は、今も耳に懐かしく残っています」(寮史作成のためのアンケートより)という人は多い。もし、80年代以降に寮に入った後輩や、あるいは今の寮生に「蒼玄寮らしさ」のようなものがあるとしたら、その一部は彼によって作られと言っていいだろう。
 残念ながら、鈴木さんは、1995年3月に他界された。彼の声が耳に残っている方も、今はじめてその存在を知った方も、ともに、謹んでご冥福をお祈りしよう。

半てん姿の悠元寮生「緑の旗」の一面を飾る

緑の旗 全寮連の機関紙「緑の旗」1977年1月30日号の紙面には、ただならぬ華やかさがあふれていた。そう、一面にある「われら寮生」という囲み記事に、我らが悠元寮生が束になって登場したのだ。新成人たちが「成人のお祝いの会」の様子を取材されたのである。もちろん出で立ちは、彼女たちにとっての勝負服である半てん姿だった。
 大きな写真の下につけられた記事は、次のとおり。

〈二十歳〉
「キョウコさん、ミドリさん、ミサコさん、ハルコさん、キョウ子さん、トシエさん……成人おめでとう」
 成人の日から一週間遅れて寮で開かれたささやかな成人式。
「二十歳になってタバコもお酒も飲めるんだわ」
「これからも誠実に生きていきたい」
 などと新たな決意が次々と。甘酒と半てんがよく似合っていた。
―埼玉大悠元寮で―

「これからも誠実に生きていきたい」なんて、これほど見事に媒体の特性やニーズに合った抱負は、なかなか言えるものではない。記者が適当に考えたと言われても、なるほどとうなづいてしまいそうになるぐらいである。