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91年度悠元寮入寮生 木村

 私は今年で31才になる。早いもので卒寮してから今年の4月で丸8年になり、その間に就職し結婚退職し出産し、現在は2才の小僧と日々のんべんたらりと生活している。そんなある日、久々にケータイのメールの着信音がなった。(久々なんである。それくらい私のケータイは機能を持ち腐れている。このままでは本当に腐ってしまうかもしれない。どれくらい腐りかけているかというと、料金プランの無料通話分をめったに越えないので毎月毎月請求書には同じ金額3360円が判で押されたように記載されているくらい腐っている。いっそ解約してやろうかとも思うのだがそうすると外界とますます縁遠くなってしまいそうなので、そのまま腐らせている次第である。いかん、ダイナミックに脱線した。寮食の話だった。)在寮中同室だった俊香ちゃんからだ。『卒寮式について』?どうもホームページとやらを読んでみないと詳細が分からないらしい。むむむ、そんなたいそうなことがこのケータイでできるんだろうか?とりあえずアドレスとやらをメモしてみよう。紙とペンを準備し、きっとこんなことしなくてもピピピのピで操作する方法があるんだろうなあと思いながら、ケータイの両面に連なっているアルファベットの羅列を手で書き写すという、デジタルな作業の為の純アナログな作業を済ませた。ボタンをぺこぺこ押していると『インターネットアクセス』という文字が出て来たので、これ幸いと更にペコペコ押し続けてみる。めでたく文章がばらばらと画面に出て来た。おおっ、成功したらしいぞ。これでこのケータイも持ち腐れていた機能をひとつ使用されることかできた。よかった、まだ腐ってはいなかったようだ。

 …しかしばらばらと出て来た文章の内容は『田中さんの退職』と『寮食堂の閉鎖』という寂しい情報だった。そして『厨房の方々の卒寮式のお知らせ』。卒寮するのは厨房の方々だったのだ。卒寮後も時々寮を思い出し、「そういえば田中さんってそろそろ定年だったような」と思っていたが、それはこの春だったのか。
 行かねは。まずそう思った。それから「えらいこっちゃ、大変だ、とにもかくにも行かねばならん。」と無意味にあたふたし、おろおろし、部屋の中をうろうろしてひとしきり動揺した後、今すぐの話ではないことに気づいて落ち着くことにした。行くと言っても2才の小僧を育てている身、連れて行っていいものだろうか。チンパンジーでさえ人間の3才児の知能を持っているというのに2才ではチンパンジー以下である。式典でおとなしくしているとは思えない。それにその後の宴会…甦る記憶は自分の卒寮式の大狂乱の宴だ。あの現場に幼児を連れて行ってよいものか。…いや、それでも行かねばならん!小僧には社会勉強の一環として体験させてしまえ!私は出席することに一種の使命感さえ覚えた。
 …とか何とか書いてると、在寮中は毎日寮食を食べ、厨房交流会には必ず顔を出し、寮食とは深い深ーい関わりと思い入れをもっていたかのようだか実はそうでもない。生活部であったので食券をせっせと数え、結構一生懸命仕事をした。田中さんや衛藤さんにもよくかまってもらったほうだと思う。でも寮食はそーんなに食べてない。(不届き者だな)その証拠に『思い出の寮食メニュー』を聞かれたとき、“ボルシチ”以外思い出せなかった。“ボルシチ”…テレビのグルメ番組でとりあげられたり、レストランのメニューで並んでいたりする度に思い出される寮食の“ボルシチ”。当時たまーに予約した寮食で出てくると「ああ、きょうはボルシチか…」と思わず「…」を語尾につけてしまう“ボルシチ”。鳴呼、“ボルシチ”“ボルシチ”(連呼していると何かの呪文のように思えて来たぞ。)。あ、“スコッチエッグ”ってのもあったなあ。おお、これで2つ思い出せた。この調子であと2つ3つ………いかん、『思い出せた寮食メニュー』ではないのだ、『思い出の寮食メニュー』なのだ。既に趣旨が違っている。ああもうこうして書けば書くほと不届き者であることが露呈されていくではないか。こんな私が『寮食堂の思い出』をテーマに原稿を書く資格があるのだろうか。もう少し寮食に対する思い入れはないのか。しかし頑張って思い出してみても納豆に醤油をかけようとしてソースをかけちゃったとか、入寮して初めて寮食を食べるって時に箸を忘れた新人寮生が同期にいたなあとかどうでもいいことしか浮かんで来ない。他にはないのか他に!
 それでも信じて頂きたい。私にとって寮食堂は、寮生活と切り離すことのできない大切なものだった。これだけ書いた後じゃあまりにも嘘くさいが本当なのだ。そうでもなければ丸3年触ってなかったワープロを引っ張り出し、締め切りを目前にしてうんうんうなりながら必死にキーホードを叩いている訳がない。
 寮食はあんまし食べてなかった私だが、寮食堂ではいろんなことをした。今もあるのか知らないが当時のバンドサークル“Am”に所属し、ライブの度に食堂を使わせて頂いた。「汚くすんな」と田中さんに怒られてはいけないので、ライブの後は疲れた身体と少々高揚した気分を引きずって、ずーりずーりと床のモップがけをした。寮祭の実行委員になったときは数々の企画を食堂で行い、時には厨房の方々に料理を作って頂くようお願いした。今考えればとんでもなく無理難題な予算だったと思うのに、本当に有り難い限りであった。新歓シーズンには食堂に掲示された新入寮生の写真を見てあーじゃこーじゃと好き勝手なことを言い(きっと自分が新入寮生だったときもいろいろ言われていたと思うが)、代議員大会では議案書を手に意見をつっこんだりつっこまれたりして冷や汗をかき、卒寮式には飲めや歌えやの乱痴気騒ぎを夜通しした。細かく辿って行けばもうキリがない。食堂での思い出は次から次へと溢れてくる。

 その食堂での記憶のあちこちに厨房の方々かくいる。白衣を着、厨房の中からカウンターに肘をかけて「よぉ」と話かける田中さんの姿、寮生と会話しているときの衛藤さんの豪快な笑い声。当時のこくごく日常の風景である。平日、駐輪場には自転車通勤の職員さたちの自転中が並んでいたが、時には田中さんの愛車が日曜日にも停まっており、そんな日にたまたま厨房を訪れたりすると酒盛りの真っ最中で、一升びん片手の田中さんに「あ飲め。」と酒を注がれ、ご相伴にあずかったりした。
 忘れられない姿がある。あれは田中さんの勤続30年の記念式典のときだ。それは、出席した人は覚えていると思うのだが、食堂を全面使い切った会場設定で卒寮生も数多く出席し、当時の卒寮式並かそれ以上に盛大に行われ、私は予想を超えた内容に心底驚いた。記念品としては、通勤のための新車(もちろん自転車)と、田中さんの似顔絵をプリントし、そのまわりに皆で寄せ書きをした白衣が贈られた。その式典で、田中さんは泣いた。「たかが一介の職員に…」そう呟いたのが聞こえた。
 「たかが」ではない。「一介の」ではないのだ。そういうにはあまりに深く、寮生と関わりを持ってくれた。そうでなければどうしてこれだけの人間が動くのか。実行委員には在寮生だけでなく私の在寮中の先輩・後輩の名前があり、式当日こ向けて着々と準備を進めているようだし、ホームページの記帳には出席・欠席こかかわらず各の思い出のコメントか綴られている。参加者一覧を見ると、30年前の1973年入寮生から始まっている。(30年前なんて私は1才で、その私だってもう12年前の入寮生だ。)住所だってそうだ、都内近郊のみならず、なかには海外からとりあえず帰国しようという人間もいる。時間も距離も関係なく、まずは駆けつけよう、そう思わせるだけのものが田中さん達にはあるのだ。そんな人達が、「たかが」なんてとんでもないではないか。厨房の人達が、寮食堂という場所が培って来た軌跡が、こんなにたくさんの人間を動かしている。それだけ寮生にとって『寮食堂』は思い出深い場所であり、そこで出会った人達にたくさんいろんな大切なもの・気持ちをもらってきた。うーん、もっとうまく伝えたいのだが言葉が見つからない。とにかく、私は、『寮食堂』のある寮で学生時代を送ることができ、厨房の人達に会えてよかった。ほんとによかった。
 あまたの寮生を迎え入れ、送り出し、そして今自らも“卒寮”していく田中さん、衛藤さんを初めとする厨房の方々・それと同時に役割を終える『寮食堂』。たとえこれから寮に行くことがあっても、厨房は空っぽだろうし、誰ともばったり顔を合わせることはないだろう。それは寂しくはあるけれと、またいずれ何かの機会に会えるかもしれない。だから式当日はしばしの別れの前に、感謝の言葉を伝えに、2才の小僧の手をひいて浦和まで旅をしよう。そうして皆様にお酒を注がせて頂こう。

 余談だが、式を前にして最近私は頻繁にホームページを覗いている。腐りきっていたこのケータイもその本分を発揮することができ、心なしか生き生きしているようだ。私も少しはアナログ人間から脱することができたかもしれない。この調子でそれじゃ次は自分のEメールアドレスを覚える努力をしよう。…あっ…その前にケータイの電話番号もうろ覚えだった…。デジタルな日々への道程は長い。