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2003年2月 大野(1982年入学)

 いま思いますと、「学生寮」は「“人種“の坩堝(ルツボ)」でした。在寮経験のある方々に説明は不要ですね(^^)

 そして、「寮食堂」は「寮生のスクランブル交差点」とでもいいましょうか。

 1982年、確かに私は埼玉大学に入学したわけですが、言葉を変えれば「学生寮に入寮した」と言っても過言ではありません。40歳になった今だからこそ冷静にそう思えます。  ユーミンの「卒業写真」という歌の歌詞に、「…青春そのもの♪」というくだりがありますが、本当、コッ恥ずかしいけどそう思います。私だけではないんじゃないかなぁ、記帳を拝見しました。

 私の好きだった寮食メニューはスコッチ・エッグでした。当時、ハイカラなメニューだと思いましたね。ゆで卵とメンチカツを一度にほおばることが出来る!実家の母は、そんな料理は作ってくれなかったもん。それに、半分に切って盛り付けても、どうしてツルツルの茹卵の表面にミンチがついているのか不思議でした。今でも不思議です。それに、あんな分厚いものにまんべんなく火を通すのは難しいはず…

 BE-PLANT丼と寮食のスコッチ・エッグ、この二つですね、すぐ頭に浮かぶのは、やっぱり。

 さて、寮食堂は食事をするだけの場所ではありませんでした。

 私が入寮した当時は、「定削」だの「団交」だの「レジメ」だの、昨日まで受験生だった田舎の子には、チンプンカンプンな言葉が飛び交っていました。そんな言葉を口にする先輩たちがすごーく大人で近寄りがたく感じたものです。    寮生大会も開いた…「定削」は、寮食の予約制を導入することで、確か、落ち着いた…。「定削」に関わることで、社会をチョット垣間見ました。

 一方で、寮生たちは大いに青春を謳歌しました。寮食堂を愛するあまり、寮食堂で結婚式を挙げた先輩もいらっしゃる(0先輩)。寮食堂は、蒼玄寮生と悠元寮生の出会いの場でありランデブーの場所でもありました。私に限らず(^ ^#)身に覚えのある人は沢山いるでしょうし、食堂の調理師さんもそんなカップルを沢山見送られたことと思います。

 寮食堂の夜の顔。ダンスサークル「フェニックス」がダンスの練習やダンパを開いたり、何でだろう、寮食堂がディスコ化したり、コンサート会場になったり、大忘年会会場(酒場?修羅場?)になったり…。どれもチョットでは語り尽くせません。あの頃のパワーは異常だったのかしら、今の学生はどうなのかなぁ…とにかく、あんなハチャメチャな事が出来たのも、今回卒寮なさる田中さんはじめ、スタッフの方々のご理解があったからこそだったと思います。本当に、ありがとうございました。そしてお疲れ様です。こんな文章でもはなむけになりますでしょうか。  淋しくなりますねぇ。でも、卒寮生にとって思い出は宝物です。形がない分、壊れることなく、ずっと、心にあり続けます。

 最後になりますが、これも時代の流れでしょうか、埼玉大学も群馬大学と合併するらしいし、そうしたら、「群玉大?」になっちゃいますね(^^;) 既に、浦和市の名は地図から消え、「さいたま市」になりました。変化の波に、私たちはタフにならなければならないんですね。

 この度来し方を振り返り、文集に寄稿する機会に感謝しております。

 幹事の皆様、ご苦労様です。

(P.S. これを機会に、「蒼玄寮物語」とか出版しちゃったらどうでしょうね。活字関係の卒寮生もいることですし。)