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2003年2月27日
1990年度入寮、元南4ブロック所属、1994年度卒寮生
水谷

 この度、はれて御卒寮される
衛藤様   田中様  小山田様  西田様
河野様  本田様  友光様

 御卒寮おめでとうございます。

 長年にわたり僕たち寮生を父として母として支えていただいた事は一生忘れません。卒寮式にて送り出していただく度に、大きな励ましとお祝いのお言葉で僕らを送り出していただき本当にありがとうございました。 今度は僕らが皆さんを感謝と喜びの言葉で送り出させて頂きます。

 ただ自分はこのような機会に残念ながら居合わせることが出来そうもありませんので、感謝の言葉として、寮食堂の思い出をつづらせていただきたいと思います。

 寮食堂は自分にとって食堂であること以上に自分自身の自己表現のステージでした。 当時はアルバイトの関係でリアルタムに食堂で食事をすることがなかなか出来ず、更に自堕落な性格が災いして経常費滞納が続き食券も充分に購入できず、裏で同期にこっそり売ってもらった時にありがたくいただくのが常でした。 今思えば、あんなリーズナブルな昼食&夕食は“ありえねー!!!!”といった感じでしょうか?もっと活用させていただけば一財産残ってたのでは・・・。 そんな自分ではあったのですが、食堂に行くたびに田中さんや衛藤さんはいつも明るく(衛藤さんの甲高くちょっとしゃがれた声は今でも耳に残っています。)声をかけていただきました。感謝・感謝です。 当時は厚顔無恥の自分でしたので、食堂はもっぱら食事以外に活用させていただいていました。詳細は以下の通りです。

 なんと言ってもメインはAM(エーマイナー)です。パーテションの裏はまさに自分の城であるかのごとく好き勝手に使っていました。といっても自分は『角角CLUB』の楽器が出来ない故のヴォーカルでしたので『歌い』『騒ぐ』がメインで、楽器にいたっては常設のドラムでズンドコいびつなビートを刻むのが精一杯でした。 ライブ前の練習では深夜から早朝までシャウトの連続でしたので、さぞかし悠元寮生にははた迷惑だったことと思います。 嗚呼、『ガッチャマン:ロックバージョン』と『大きな古時計:パンクバージョン』でもう一度弾けたいです。

 寮祭では実行委員長もさせていただきました。 先輩の島村さんが扮する弁士の劇?『きっちょむさん』での代官様役を遠路『名古屋』より呼び寄せた母親に披露した事も懐かしい思い出です。今はそのとき扮した代官のようなお腹になってしまいました。 因みに当時寮祭に親をよんでいたのは自分と先輩の平山さんだけでした。後にも先にもそんなことしたのは僕らぐらいでしょうか。そのせいか平山さんは僕がいなくてもノンアポで実家(正確には愛知県大府市)に僕の母親に会いに来ちゃいました。

 同期の工藤の誕生会を盛大にやったのもいい思い出です。それは娯楽室の畳を敷き詰めて100人ぐらいでのもつ鍋パーティーです。仕込みの段階で“もつ”を煮込んで『南4』中を異様な臭いに包んだのは自分の仕業です。ガスコンロいくつ持ち込んだでしょうか?なんせ大変でしたがこれも最高の思い出です。工藤君はその後髪が随分薄くなったそうですが今もまだ残ってるのかなあ。

 しめはヤッパリ卒寮式です。根っからのお祭り男でしたので、卒寮式実行委員もやっています。役得なのは先輩への卒寮証書を授与することが出来たことです。うれしいのと悲しいのとで授与している最中に涙が止まらなくなってしまい。鼻水は出るは拭けないはで大変でした。文面を考えるのがまた面白いんです。こんな立派で機知に富んだ証書はそうはありません。 又、送られる立場になった際も自分が卒寮証書を授与される間から、卒寮生答辞をさせていただくまでの間、涙をぐっとこらえていましたが、ああああかん、ヤッパリ限界をこえてしまい。涙でぼろぼろになってしまいました。

 このような思い出以外にもまだまだネタはありますが、なんだか自分の思い出に酔っているようで本当に感謝の思いを伝えきれているかわかりません。 ただこのような思い出は、やはり寮食堂で僕らを支えてくれた皆さんのおかげです。

 卒寮式の答辞の中で僕は『皆さん、入寮から卒寮まで僕らを愛していただきありがとうございました。』と述べました。この言葉はそのときの自分の偽らざる気持ちで、そのときの自分の最大限の感謝の気持です。 卒寮して9年経ち、この度卒寮される皆さんの寮生に向ける思いがより深くわかる年齢になりました。いまここに皆さんを送り出すそのときを迎え、その当時の自分の言葉以上深い思いで伝えさせてください。

 長い間、本当にありがとうございました。