2017年10月7日、南与野から上峰、上大久保、下大久保のあたりを散歩しました。
25年前には既にあったものの、興味がなく目に入らなかったものがあります。
今見れば興味深い、そんな古いものと今をレポートします。

第一回は、鈴谷から上峰、上大久保の手前までです。

南与野駅

南与野駅の改札を出て西側にでました。

公園が整備されたあたりは知っていたのですが、最近は駅前にマンションが立って、ベッドタウン化が始まっていますね。

以前通った道と並行する新しい道を埼大通りに向かいます。

埼大通りのバス停のところです。駅の整備で人の流れが変わったからでしょうけど、ガード下にはもう飲食店はありません。

近くの交差点から道を渡り、北の住宅街に入ります。

与野の大榧(かや)/妙行寺

住宅街の角を曲がると、いきなり現れ、はっとします。

階段を登って駐車場側から入りましたが、もう近づくと高さがわかりません。幹の太さが壮観です。

樹齢はおよそ1000年、室町時代(樹齢400年ころ)には既に巨木で知られていたとのことです。

伝説の案内板には、1407年にお寺の住職が、ここに祀られている金毘羅様の導きで日蓮宗に帰依したいわれが書かれています。

その金毘羅様のお堂。

しばし大榧を眺めた後、向かいの妙光寺へ。

案内板を見てみると、見どころがありそうなので入ってみます。

大きな日蓮さんの裏に何か…

順番を変えますが、まずは真ん中の鎌倉時代の板碑です。

板碑は仏様を梵字で示して祀った碑です。中世によく作られました。

ここら辺の板碑は秩父の緑泥岩で作られているそうです。いや板碑というものを知ったのは最近なんですが、知ったかぶり。梵字と仏様の対応を覚えると楽しめそうですね。

板碑は県内にたくさんあったでしょうが、その後の開発で結構壊れたのでは無いでしょうか。

三代将軍家光が所領を寄進したときの朱印状もあるそうです。

あと江戸時代の学者、稲垣田龍のお墓の説明。

妙行寺には、同じ頃の文化人、鈴木荘丹のお墓もあります。日蓮さんの裏に荘丹の句碑がありますが、私には読めません。

「大和行をおもふて/蓬莱や心に花のよし埜榧」(さいたま市のページより)

説明板はお墓の中にありますが、迷路のようだし、眠っているところを騒がすのも本意ではないしで、あまりお勧めしません。

個人の区画には入らないようにはしましたが…。

本堂の裏には、モッコクの古木があります。幹は切られていて痛々しいですが、葉は青々としています。

樹齢600年。金比羅様伝説にあった、日蓮宗に改宗したときに植えられたという伝説があるそうです。

モッコクなんて聞いたことはなかったですが、ツバキ科ということで、厚手の葉です。小さな実がなっていました。(油が絞れそう)

 

参考:猫の足あと「妙行寺。さいたま市中央区鈴谷にある日蓮宗寺院

今昔マップ on the web」で見る)

上峰方面へ

鈴谷から芸術劇場方面に向かいます。浦和西警察署の裏辺り。

マンションの敷地内の公園にあった遊具。

マンション自体は記憶にないですし新しそうですが、この遊具を見ると卒業直後からマンションが建てられた感じ?

文化財でなくとも、何気ない造形物が面白いことはままあります。

このコアラとパンダの造形も愛嬌があり、古びが趣を加えています。特にコアラの色合いと瞳!

上峰交差点

上峰の交差点、大宮バイパスと埼大通りの立体交差の一本北の交差点です。

在学中にガストという業態ができて、ここもすかいらーくからガストになったと記憶しています。確か紅茶のパックとか持ってきた人もいるような…。

その向かいに興味深いものがありました。

新し目の観音様と庚申様、そしてもう判別のつかない石像が並んでいます。道路の建設や拡幅の際にここにまとめられたのでしょうか。昔からあったのでしょうが、記憶にありません。

庚申様は塔のようで、その先頭に像が乗せられています。

台座には「武蔵足立郡上峰村/奉造立 庚申尊像 願主/宝永八辛卯年二月吉日と書かれています。宝永は富士山の噴火があった年号ですね。江戸時代。

横には「これより江戸みち」と書かれていますので道標を兼ねて造られたのでしょうか。そして、どれが江戸道なのでしょう?

こちらはシンプルな「閻魔大王」

「文化十四年二月吉日」です。

新しい観音様は、銘がなくいつ作られたものかわかりませんでした。

 

予想外の面白いものに出会いましたが、そろそろ西に向かいます。

 

博多ラーメンの「夢や」。替え玉しましたね。

そして諏訪神社。このちょっとした石段を登ってみます。

諏訪神社

石段を上がった後に振り返ってみた狛犬です。

新しいものですが、丸みを帯びた胸を張った造形で直線的に前足につながっています。アニメやゲームのキャラクターのようですね。

その裏の伊勢参宮記念の碑は「紀元二千六百年」なのでゼロ戦ができた年、太平洋戦争の前、日中戦争の時代です。紀元二千六百年ということで上峰村の代表の人がお伊勢参りをしたのでしょう。

神社の御由書きです。

諏訪神社ということで、御祭神は建御名方命と八坂刀売命。

建御名方命が越沼名川姫の次男という説は初めてみました。そこからまた妄想が広がるのですがマニアックなので割愛。

拝殿の軒桁の下にも狛犬が三匹います。

 

この神社は本殿が覆屋に覆われておらず、直接みることができます。

一間流造で、写真ではわかりにくいですが、破風板や本殿を持ち上げている枡組がきれいです。やはり江戸時代ですかね。

そして境内社の須賀社と稲荷社です。お稲荷様の印のキツネ様がありませんので、どちらがどちらかははっきりしません。

小さい石の祠(こちらのほうが古そうなので須賀社かな?)は、屋根に千鳥破風がついた面白い形をしています。

須賀社のご祭神は大国主命(というより大黒様といったほうが馴染みが深いかも)、稲荷社のご祭神は言わずと知れた宇迦之御魂神です。

夫婦梶。3年前の伊勢神宮式年遷宮の記念に、信州の諏訪大社境内の梶の木から株分けして植樹したとのことです。葉の繁りが盛んで、案内板がもうよくみえません。

雄株と雌株が植えられています。(梶の木って雌雄異株だったのですね。)数十年立てば連理樹になりそうですね。

振り返るとこちらにも梶の木が植えられています。最近のようですね。

しかしこの場所、違う種類の木と連理樹になってしいますが…。その木の種類はわかりませんが、根の張り具合と苔の具合が面白いです。

そして昭和60年に改築の大きな記念碑が立っています。拝殿、本殿はそう新しそうには見えませんので、狛犬、鳥居、石段を整備したのでしょうか。修繕はしたのでしょうけど。

そして石段を降りて西、上大久保方面へ。諏訪坂の看板がありました。

今昔マップ on the web」で見る)

上大久保へ

西部病院前のこの道、鎌倉時代に整備された鎌倉街道の支道の一つで、羽倉道というようです。

所沢を通って藤沢に行く上つ道と、岩槻を通って宇都宮に行く中つ道を結んでいました。

参考:馬込と大田区の歴史を保存する会「鎌倉街道の上道・中道・下道には諸説あり、代表的な説を紹介

「これより江戸みち」の江戸道とは、この道を進んで川越街道に出ることを指していたのでしょうか。

常磐高校(常磐女子高)の前を通りながら「リヤカー引いて暗幕を借りに来たね」と思いました。ちょうど下校時刻だったので写真はありません。

りんごの樹の交差点に行く前に上大久保神社の看板が見えましたのでここを曲がります。

さいたま桜高等学園の駐車場の向こうに神社の屋根が見えてきました。

上大久保あたり」につづく。