2017年10月7日、南与野駅から下大久保まで散歩しました。

その最終回として、学生寄宿舎(元学生寮)の前を通り下大久保諏訪社に向かいます。

そこはもうすっかりジャングル…。

学生寄宿舎あたり

前回書きました)大学構内を西門から出て、寮(現、学生寄宿舎)の前を通ります。

寮の前の駐車場は、手前側が駐輪場、奥が駐車場になっています。

食堂ともと悠元寮。

数年前に大学のホームページを見ましたら、食堂は中が仕切られて集会室のようになったようです。しかし学生が利用ルールを守れなかったとかで、使用禁止になったとのこと。今はどうなっているかわかりませんが。

そのときの情報ですと、悠元寮には男子学生が住んでいるようです。これまた現在はわかりませんが。

昭和45年に学生寮ができた当時は、悠元寮は別所沼でこの建物はなく、代わりに池(湿地帯)があったそうです。そこで、寮生とでマッカチン(ザリガニ)を捕まえて、厨房の大ガマで煮て食べたそうな。田中さん談。

改装で木もすっかり払われましたが、またぼちぼち植樹されています。

そして大きな違いは…

悠元寮の前の草原、教育学部の土地と言われていましたが、今はこのようなジャングルです。昔は年に一回くらい草刈りが入っていたのに。

当時はこの草原にノゾキが出没したりしましたが、もうジャングルなのでノゾキも入れないでしょう。(いや今住んでるのは男子学生。)

比較として、埼玉大学ホームカミングデーのパンフレットより、昭和60年の航空写真を引用します。

上辺真ん中、三角形のフィールドは、周辺に植樹されているものの草原だということがわかります。

そしてこれまた、航空写真で見てみます。

今昔マップ on the web」で見る)

左が1988-90年の航空写真、右が最新の航空写真です。右の写真をみると、一食の工事や音楽棟撤去の完了後ですが、寮は学生寄宿舎に改装前のようです。(食堂周りの樹木から。)

80年代末にフィールドの真ん中らへんにもぼちぼち植樹され、2010年辺りにはもうジャングル化していた模様。

 

裏バス通りにでて道を渡り、西、鴨川方向に進みます。

裏バス通りから悠元寮を眺めた図。ジャングルでほとんど見えません。

昔はこの通りに、少なくない車が路駐して悠元寮を伺っていたと聞きました。今はもうこの通りジャングルで見えないので安心です。(いや今住んでるのは男子…。とはいえ、それならそれ専のノゾキがいるのかもしれません。)

鴨川に来ました。大きな鯉が背中を出して泳いでいたとか。田中さん談。

橋の上からようやく南棟が見えました。

橋を渡りきると左手下方に「下大久保の鎮守/お諏訪さま/下大久保諏訪社」の大きな看板が見えます。

下大久保諏訪社

橋のこちら側はスロープになっており、それを降りてから折り返す形で看板のところにもどります。

先の看板の隣に掲示板があり、ご由緒書はそこに掲示されています。

ご祭神は言わずもがなの建御名方命。そしてこの神社は、南北朝時代には既にあったとのことです。恐らく全国の諏訪社と同様、鎌倉時代の武士による諏訪大社の勧請ブームに乗ったのでしょう。もちろんそれ以前にも何らかの祭祀があったかもしれません。

ここからもう本殿は見えているのですが、表参道はこちらという看板に従ってさらに鴨川方向に戻ります。

ぐるっと回って境内の前。

上峰の諏訪神社と同様ここ下大久保の諏訪神社にも、諏訪大社のシンボル、梶の木が植えられていました。しかし諏訪大社からの株分けかどうかはわかりません。

また他の種類の木も植えられていました。

下大久保諏訪神社につきました。新し目の鳥居としめ縄。

まず鳥居の右側のものが目につきます。

手前(右)に倒れた石柱と扁額。石柱は確かに埋める部分が短すぎですねえ。

その奥(左)に力石。昔力くらべに使ったものだそうで、たまに神社でみかけます。

その奥に「御守護砂。」「この砂は神の御霊が宿る依代です。」ということで、持ち帰りができるようです。袋持参でお守りを授かるようなものでしょうか。

裏に回ると石灯籠。中ほどは後の時代に補修された感じです。

また甲子塔には大黒様が彫られています。

手水舎には、手水の仕方がイラストで示されていました。

手水舎と境内社のあたりにも石碑が幾つかあります。そのうち一つはもう字も読めないほどでした。伊勢講の碑かなあ、と思ったのですが。

拝殿に進みます。賽銭箱に諏訪社の神紋の梶の木が彫られています。四本根ということは上社から勧請されたのでしょうかね。(下社の神紋は五本根。)

拝殿にもご由緒書がありました。が、目が悪いので読めません。

境内社を見てみますと、

まず水神宮。新田開発や治水に関わりの深い場所だけに水神様も祀られています。

そして天神社。学問の神様、菅原道真公の天神様です。

そして稲荷社が二社。近くにあったお稲荷様が、開発などでここに移転されたのでしょう。

最後に本殿を眺めます。

江戸時代の作でしょうかね。しかし囲いが高く近づくと見えませんので、遠目に見るしか。(覗き込めばよいのか。)

 

以上、下大久保諏訪社でした。寮からは一番近い神社ですが、在学当時来たことはありませんでしたし、あったことも記憶にありません。大きな看板は目に入っていたはずなんですけどねえ。

参考:猫の足あと「下大久保諏訪社。さいたま市桜区下大久保の神社

参道方向の謎

明治時代の迅速測図を見ると、諏訪社の鳥居は街道(裏バス通り)を向いています。

今の地図では、鳥居は地図記号でみな上下同じです。しかしこの時代の地図では、その向きが参道の方向を表しているようです。(ちなみに、江戸時代の地図では大名屋敷の名前の向きがあっちゃこっちゃしていますが、これもその屋敷の表門の方向を表しています。)

しかし訪れてみると表参道は90度ずれた鴨川に向いていて、これが疑問でした。

航空写真で検証してみましょう。

今昔マップ on the web」で見る)

左が1979-83年の航空写真、右が1984-86年の航空写真です。

左の写真では、やはり明治の地図から読み取れるように、参道が街道を向いています。鴨川に仮橋が掛かっている右の写真では、左の写真での境内北半分が、橋のたもとのスロープから回り込むS字の道に変わっています。

この時に南側の畑を神社の敷地にして、こちらの方向に参道を変えたようですね。その改装で社叢も掃ってしまって、今は大きな木はありません。

江戸期のこの辺り

掲示板の御由緒書きにはこの神社が、元禄時代の新田開発に伴って下大久保村の中郷からここに移られた、とありました。もとにあった中郷とはどこかというと…。

今昔マップ on the web」で見る)

この諏訪社がある場所の北西、埼大通りの向こうの字が新田。まさに新田開発された場所の名前。そして中郷は、そこから裏バス通りを越えた北東側です。ここいらが恐らく中世にはあった古い村。

興味深いのは明治時代の地図で、今とは違い、鴨川が中郷の北で直角に曲がって荒川に注いでいるところ。そして、新田と諏訪社を囲む堤防が南西に張り出しているところ。

この御由緒書きから妄想すると、新田開発された元禄にはこの張り出した堤防はなく、今の裏バス通りが堤防だったのではないでしょうか。その北東が古村で南西が新田ですから。そして元禄以降に住む人が多くなり、明治までの間に張り出した形で堤防が作られ、その向こうが田んぼ、内側が畑になったのではないでしょうか。

鴨川はこのあたりを蛇行し、バタバタと流れを変えていたのでしょう。元氷川神社が大久保日枝神社に比べて鴨川の川下とは思えない、と書いてきましたが、そのように流れていた時代もあったのかもしれません。

今でも堤防の形を残す大学グラウンドの南側の道もその名残。今では秋ヶ瀬の堤防があるので、無用の長物ですが。ついでに「新開」も新田開発で開かれたような地名です。

中世のこの辺り

ネットで調べているうちに、中世の鴨川には、飯能に発する入間川の水が流れていることがわかりました。これを「元入間川」というらしいです。
このとき秩父に発する荒川の水は東の元荒川(或は綾瀬川)を流れていました。

大久保あたりの元入間川の流れ:

今昔マップ on the web」で見る)

地図の青い横線が旧河川。旧入間川と思われる川の跡です。

この辺りの元入間川は、浦和北高辺りで南西に向かった後反転、千貫樋水郷公園つまり明治時代の鴨川本流を逆に北東に流れ、今日通ってきた羽倉道の北側を流れて上峰の諏訪神社で南側に反転しています。その後、武蔵浦和駅近くの田島と鹿手袋の境界で西に流れを変えます。

西に流れ、川口辺りで今の芝川の一部と重なり、草加と足立区の境界を流れる毛長川になります。

これが鴨川になったのは家康が江戸に入ったころ。指扇駅のあたりに堤(土屋古堤)を作って入間川の水が入らないようにしました。これを行ったのは荒川の瀬替えを行った伊奈忠次だそうです。

それより昔はまたわかりませんが、少なくとも戦国時代の後期は先の地図の流れだったようです。

 

このような流れの時代は、元氷川神社と大久保日枝神社が、川の対岸でした。
川の南側が鎌倉街道・羽倉道で、諏訪神社の坂の下に橋か渡しがあったことになります。

今の羽倉橋の下に、太平記の時代の羽倉の合戦跡があるそうですが、そのイメージもまた変わってきます。

地図と航空写真からいろいろ読み取れて面白いです。

秋ヶ瀬

鴨川沿いに戻ったあと南に進み、秋ヶ瀬の堤防の道にでます。

田園が広がり、遠くには秩父の山並み。

ランニング、ウオーキングの人も沢山。また道の両脇には彼岸花がかなりの長さに渡って植えられています。この散歩を通しても所々に萎れた彼岸花がありました。訪れるとしたら9月半ばが良いようです。

そして秋ヶ瀬公園の西洋庭園へ向かう道。ここも何度も通りましたね。昼だったり夜だったり。

 

そしてこの後、浅野さんのお墓参りに合流しました。

お散歩レポートは以上です。了。